道化の戯言

ジャスト・あ!・木綿のハンカチーフ/電波男










純次郎















第二話 電波男


あぁ、まったく面倒なことになっちまった。
あぁ、寒い。
あぁ、地面が、壁が、冷凍庫の中みたいに冷たい。
……そして、そして俺は馬鹿だ。馬鹿だったんだ。
酔っ払って、喧嘩して、殴った回数よりも殴られて、尚且つ捕まって、あまつさえ留置所だなんて……。馬鹿の極みだ。いつの日か世間では馬鹿の代名詞に俺の名前があてがわれてしまうかもしれない。
……それにしても殺風景だ。娯楽要素のあるものなんて一つも置いていない。こんなとこに入るなんてもう二度とごめんだ。
それより何より、いったいなんなんだ、こいつは? 今は年末だ。俺みたいな馬鹿が他にもいるのはわかる。だけど、一緒に留置所にいるこの男……、いや正直、男かどうかすら確信はもてない。必要以上に尖った帽子、顔は真っ白に塗りたくっていて、目の下には左右に涙と星のメイク。真っ赤な口は耳まで伸びている。挙げ句の果てには真っ赤な丸い鼻。まるっきりピエロだ。そして安っぽいピエロだ。しかも、そんなへんてこなピエロ顔の下にはビシッとした細身のスーツ、足元は茶色の便所サンダル。……デタラメすぎるチョイス。
まぁ、胸がなさそうだから男だろう。
じっと見ていると、ピエロはニッコリと笑い俺のほうに振り向いてきた。冗談じゃない。すぐに目を逸らした。
「――なあ、兄ちゃん。いったい何やってこんなとこに入ってきたんだい? 俺かい? 俺はまぁ、いくつか理由はあるんだけど、捕まったのは食い逃げだよ、ははは」
妙に甲高い声だが確かに男の声だった。それでも、わけがわかんないってことにはなんら変わりはない。ピエロメイクのわけわかんない奴に話しかけられたわけだ。……最悪な気分だ。
「おいおい、兄ちゃん、無視するこたぁねぇだろう? これだって何かの縁さ! 無碍にしたら罰があたるぜ?」
 ……はぁ〜、面倒くさい。……関わりたくない。でもこんな二人っきりの狭い空間でずっと無視を決め込むなんて俺にはできないだろうな……。
「えっと、ちょっと酔って喧嘩してしまって……」
「そうかそうか、そりゃ災難だったなあ」
 言ってる言葉のわりには声はご機嫌そのものだ。俺が受け答えをしてきたことが嬉しいのだろう。……やっぱ答えなきゃよかったかな?
「まぁ、災難っていうか自業自得なんすけどね」
 だけど今更、無視するなんてのは無理だな。とりあえずこの会話だけでも付き合うとするか。
「そりゃそうだ。この世の全ては自業自得さぁ! でも兄ちゃん、なんか溜まってたんだろ? 日頃の鬱憤みてぇなもんがよ!」
「はい。昨日彼女が浮気したみたいで……」
 ……こんな奴に、ここまで言う必要はなかったな。
「そうか、ちょうどよかった。あんたにぴったりなお話があるんだがどうする?」
 このピエロはしゃべるたび手を大げさに動かす癖があるようだ。それもなんだか腹立たしい動きだ。
「はぁ? いったいなに言ってんすか?」
「あぁ、説明不足だったな。俺はな、“語り部ピエロ”なんだよ」
 ピエロはうんうんと一人で唸っている。
「あの、それでも全然、説明不足なんすけど?」
「まあまあ、つまり……、ほら、どうせ今日は家には帰れねぇんだ、俺の話でも聞かねぇか? ってことよ」
 そこまで言うとそのピエロはピタッと止まった。瞬きすらしない。話を聞くって言わないと動かないつもりなのだろうか?
 ………………。
どうやらそのようだ。……まぁ確かに暇だし、この変人の話でも聞くか。留置所で出合ったピエロの話を聞く、コサカイさんのテレビにいつか出れる日があったらそこで話そう。
「あぁ、はい。んじゃ、そのお話、お願いします」
 すると、ピエロは急に動き出し、目を細くして嘘くさい笑みを浮かべながら手を差し出してきた。白い手袋をしている。
「んじゃそうだな、五百円もらおうか!」
「は? 金取るんすか?」
「そりゃそうさ、タダで何かをしてもらおうなんて考えてると、ろくな大人になれないぞ? 可愛いあの子は振り向いちゃくれねぇぞ? 兄ちゃん、そもそもな――」
「あぁー、はいはい、わかりましたよ。払いますって。はいどうぞ」
なんだか話が長くなりそうだったので、仕方なく金を払ってやった。ポケットに入っていた五百円玉を手渡すとピエロは本当に嬉しそうに笑った。……路上生活者かなんかなんだろうな。もしかしたら俺は今ちょっとしたボランティアをしてやってるのかもしれない。そう思っておこう。
「それじゃ、よっと」
ピエロは立ち上がりくるっとターンをして両手を広げた。
「さぁさぁ始まりました!!」
「――ちょ、ちょっと」
あまりの声の大きさに俺は焦った。なんてったってここは留置所なんだ。思わず看守さんの様子を伺ってしまう。しかし、看守さんは一瞬ピエロを見ただけですぐに何もないかのように正面に向き直った。
? なぜ?
……そうか、きっといつものことなんだろう。寒い時期に捕まりたがる路上生活者がいるなんてのは聞いたことある気がする。
「う〜ん……、そうだなぁ、留置所の中かぁ……、んじゃリュウちゃんだな。よし、ウォッホン……、あーあー」
 しばらくピエロは発声練習のまがいものをして、
「ま〜〜い、ね〜〜む、い〜〜ず……、リュウちゃんで〜〜〜〜〜〜〜〜す!!!」
 信じられないくらい大きな声を出した。まるで耳元でドラを鳴らされたかのように耳がキンキンとする。
「留置所生まれのリュウちゃんのぉ、ためになる話ぃ〜〜、はい、ここで拍手ぅ〜〜」
 俺が拍手をしないでいるとピエロは深いため息をつき、もう一度さらに大きな声で「拍手ぅ!!」と言ってきた。今度はドラどころじゃない。ジェット機みたいだ。
……あぁ、やっぱ話なんて聞かなきゃよかった。まったく、最悪だ。
ピエロはさらに大きな声を出そうと息を吸い込む。
はぁ……、しょうがねぇな。仕方なく拍手をしてやった。

**********

はいはい! 盛大な拍手どうもありがとう!! 兄ちゃん、俺はな、こうやって物語を聞かせることによって、代金を頂いて、それで細々と飯を食ってるんだ。いやいや、もうかっちゃいねぇって。そうそう、言っとくが、俺がこんな顔してるからって玉に乗れるってわけでもねぇし、お手玉をするわけでもねぇんだ。もちろんやりゃできんだろうけどな。人間ってのには不可能はないらしいしよ! ……いやぁ、そりゃ練習は必要だけどな、ははは。
でも、俺には、んなこたあ必要ないのよ。何せ俺はしゃべる道化だからな、道化は普通しゃべりゃしねぇんだがな、俺は逆にしゃべるだけの道化なわけだ。言ってみりゃ道化中の道化よ。キングオブ道化だ。
さっきも言ったばっかだがもう一度言わせてくれ! 
俺はこれで飯喰ってるんだ。
だから、もちろん物語の質にも量にも自信はある。その数は常に百八つ。この数に特に深い意味はない。百八って数字が好きなだけさ。深読みするだけ時間の無駄よ。 
百八つの中には、泥棒と警察官のラブロマンスや、虫も殺せないような優しい連続猟奇殺人鬼の話、挙句の果てには吉祥寺と火星が戦争おっぱじめちまような壮大な物語まで取り揃えてあるんだ。
え? 早く本題に入れって? 確かにおっしゃる通りなんだけどな、ちょっと待ってくれよ。物事には順序があるってよく聞くだろ? ありゃ正解だよ。本題に入る前にとりあえず俺の目的を話さなけりゃならねぇんだ。ビックリマンチョコみたいなもんでな、チョコとは言いつつもシールが主役ってのと一緒だ。そう、実は俺的にはこっちがメインなんだ。
てことで、俺の目的をよ〜く聞けよ? 
目的はそうだな、……特にないんだ。いやいや、ふざけてないから安心しろって。うんうん、わかるわかる。でも、とりあえず最後まで聞いててくれ! 損はさせねぇから、まぁ得もさせないけどな。はは。
俺はよ、別に教訓のある話をするわけでもないんだ。ただな、わけわかんねぇ馬鹿な奴ら、まぁ金メチャクチャ持ってるのにさらに金を求める奴らのことだけどよ、そいつらの論理で皆踊らされすぎなんじゃねぇかなってことは思うな。だってそうだろ? みんな幸せになりたいだけだろ? しかも幸せなんて人それぞれだろ? それなのにおかしいよなぁ……、くだらない奴が周りに煽てられてふんぞり返ってやがる。しかも、そいつらはきっと、自分が幸せだなんて思っちゃいないんだよ。わっけわかんねぇよなぁまったく。はぁ〜、ため息が出ちまう。幸せってのは“感じること”だってことをわかっちゃいないんだろうなぁ。俺ってばいいこと言うだろ? 見直したか? 惚れ直したか?
それとな、俺はよぉ、思うんだ。毎日思うんだ。世の中うまく出来てんだか出来てないんだかなぁってことをな。全てにおいてそれが付きまとうと思わねぇか? 愛や恋についてだってそうだろう? 追われると逃げるくせに、逃げられると追ったりしちまうんだ。なんだかこう聞くとうまく出来てるような気がしないかい? でも、本人たちにしたらそれはもう地獄だよ。すれ違いってのが往々に起きまくってしまうんだからな。
よく言うだろ? 誰かを愛するという気持ちは尊いものだとかよ! 離れていても僕たちは繋がっているんだ! だとかさ。どう思う兄ちゃん? そうか、よくわかんないよな。同感だ。
さて、なんでいきなり幸せと恋の話なんてしたかっていうとな、それは今回の物語が幸せな恋愛のお話だからなのよ。しかも、それは、すれ違いすら起こらない純愛の話だ。
じゃあ、いい話かって? う〜ん、どうだろうなぁ……、聞きようによってはそうも聞こえるかもしれないな、でもな、きっと悲しい話に聞こえてしまうんじゃねぇかなぁ。いやいや、だからと言って本当の意味では誰も不幸にはなってないし、やっぱ幸せな話だよ。え? 意味わかんないって? まぁ、話は今から始まるんだ。そんなに慌てる事もないし、聞いてから判断したって遅くはないだろう?
時は現代! 話の舞台は電車の中だ! 西多摩のほうから東京までまっすぐと繋いでいるあのオレンジ色の電車の中。
主人公の名は金田俊太。歳は二十歳。肩書きはフリーター。工場でガラス製品を梱包する仕事を二年間やっている男だ。う〜ん、俊太なんていってもそんな印象は全くうけないなぁ、ぽっちゃりしてて、そりゃ鈍そうなんだ。顔もその辺の女子高生に歩いてるだけで馬鹿にされちまうようなレベルだよ。当然の如く童貞で、当然の如く、ろくに恋なんてしたことなんてないんだ。
俊太は電車通勤でな。普段、八時四十八分の電車に乗ってんだ。けどな、その日はたまたま早起きしちまって、特にやることないなぁなんて思ったってわけよ。だから八時三十二分の電車に乗ったんだ。そんなことで人生は変わっちまうんだなぁ……。とりあえず変わったのは、それから毎日ちょっとの早起きを始めちまったってことだ。

俊太はいつも通り座席とドア間の三角のスペース、わかるか? だろ? あそこ落ち着くんだよな。んで進行方向の逆側のそのスペースに立ったんだ。
ふと前を見るとな、向かいの三角のスペースにそりゃかわいらしい女の子が立ってたんだ。お嬢様っぽくてなぁ、なんつーか、毛足の長い綺麗な猫でも飼ってて、午後はハーブティーを飲みながら、ボサノバを聞いて、テラスで翻訳された恋愛小説なんて読んでるような、そんな感じで、顔も小っちゃくてかわいいんだよ。
人生を変える出会いってのはやっぱりあるもんでよ。
……俊太はな、……惚れたんだ。
いやいや、めちゃくちゃかわいいなぁ、初めはその程度のことしか感じなかったんだけどな。なんだか気になって次の日もその時間のその車両に乗ってみたんだ。かわいかったんだ。その繰り返しで、毎朝顔を見てるもんだから、ドンドン思いが強くなっていったのよ。まぁ、なんつーか“かわいいなぁ”から“話してみたいなぁ”になって、結局“付き合ってみたいなぁ”になったってわけだ。
兄ちゃんも思い出してみてくれよ。中学生くらいのときのことをよ。な? 話したこともないような娘でも恋愛感情を抱いちまうってこと、ありえるだろ? 俊太は二十歳っていってもきっとその辺の中学生より経験が少ないし、まともに女の子と話したこともないんだ。わかってやってくれよ。だって今まで俊太はなぁ、本当にモテなかったんだ。……俺、今“今まで”って言ったか? 悪い悪い、訂正させてくれ。これから俊太がモテる事なんてないんだった。
でもしょうがねぇよ。不細工なんだ。十人中、十人が口をそろえて不細工って言うくらい不細工なんだ。性格も暗いなぁ、まぁ優しい奴なんだけどな、それでも、やっぱ人気の出るような明るさは持ち合わせていないわけだよ。でも、それは許してやってくれ! その性格になった理由にはきっとルックスの影響があるんだからな。つまり思春期時代に自信ってものを落っことしてきちまったんだ。
俊太はな、よくこんなことを考えていたんだ。
『なんで生きてるんだろう……、俺はこのまま一人っきりで死んでいくのかな、むなしいな……。ホッペでいいからチュウされてみたいなぁ』
モテないってのはきっと俊太を相当苦しめていたんだろうなぁ。ほら、最近はガキでもセックスなんて当たり前だろ? 周りを見てると俊太は悔しくてな、どうして性格の悪い顔のいい奴には何人も彼女ができるのに、俺には誰一人もできないんだ……ってな具合にな。まぁ簡単に言や劣等感だよな、しかも自分以外の全ての男に対してのよ。いや、それだけじゃないな、そんな男に群がる女に対してもなんらかの負の感情は抱いてたよ。
そういえば兄ちゃんは男前だから経験豊富そうだな? え? そんなことないって? いやいや、そんな男前なのにそりゃないだろ? なんてゴマすりはこの辺にしといて話を進める事にするな? はは。
俊太はその娘に惹かれてはいたけど、自分のこんな見た目じゃ絶対に無理だと思ったわけよ。
何が無理かって? そりゃ『話しかけるなんてとても無理だ。俺みたいに不細工な奴が話しかけたところで、気持ち悪がられるだけだし……』ってな感じだよ。
そんな風に俊太は何度落ち込んだ事か。だってほら、普通の人だって電車ん中で綺麗な女見たって、声なんて掛けられないだろ? 俊太みたいに自信がなければなおさら無理さ。
でもね、俊太、ちょっとかわいいとこあんだよ。
今まではな、服なんて興味がなかったからよ、仕事場の作業着とか、ずいぶん昔に母親が買ってきたダッサいボロなんかを着ていたんだけどな、その娘のことが気になり始めてからさ、生まれて初めてファッション雑誌なんて買ったのよ。
そのとき、コンビニでその雑誌を買うことが異様に恥ずかしくてなぁ、顔なんか猿のケツより真っ赤になっちまったんだ。……俺みたいなやつがこんな雑誌買ったら店員が笑うんじゃねぇかな、なんて考えてよ。実際、コンビニ店員の安田駒子ちゃん十七歳、非処女、彼氏あり、は別になんとも思っちゃいなかったんだけどな。でも、俊太は雑誌買ってコンビニの外に出たら家までダッシュしちまいやがった。エロ本買った小学生みたいにな。
な? 俊太ってかわいいだろ?
それで家に帰ってから、その雑誌を穴が開いちまうほど読み込むわけよ。いや、比喩じゃないんだ。本当に穴が開いたり、破れたりするほど読んだのよ。何日も何日も、自分にはどれが似合うのかなぁ……、なんて、背の高い男前のモデルが身につけている服を、頭の中で自分に着せるんだ。二十歳の男のすることじゃないよなぁ? あげく、巻末についてる星座別恋愛占いなんてのまで読んだんだ。しかも、その娘の星座なんて全く知らないのに自分の星座と相性のいい星座なんじゃないか……? なんて想像してな。
次の休みにお洒落な洋服を買ってやるって決めたんだ。その間、電車の中でその娘を見ると死ぬほど恥ずかしくなってなぁ、ダサい服を着ている自分をその娘に見て欲しくなかったんだろうなぁ。それでも、自分はその娘のことを見たいから、いっつも同じ電車の、同じ車両の、同じスペースに立つわけよ。恋してるときって、こんな風に間逆の感情が同居しちまうことよくあるよな? こんな馬鹿みたいな形でも俊太にとっては初恋なんだよ。まぁ、もちろん、そんな俊太の葛藤をよそに、実際のところは、その娘は俊太のことなんて微塵も見ちゃいなかったんだけどな。
休み明けの出勤はそりゃ期待で胸が膨らむわけよ。なんてたって、新品のチェックのシャツ着てるからな! そうそう、あのアイスホッケーのドラマで主役が着ていたやつと全く一緒だ。下は黒いピッタリしたズボン。あんまり似合っちゃいねぇんだけど、店員に薦められて思わず買っちまったんだ。靴なんて白いブーツだぜ? でも何度も鏡見てさ、変じゃないかな? なんて自分に問いかけるんだ。結局、変じゃないって結論を自分の中で無理やりまとめて家を出たんだよ。だけどやっぱり駅までの道を歩くときも周りの視線が酷く気になるんだ。なんか、俊太って好感持てる男だよなぁ?
電車を待っているときなんて、そりゃもうドキドキもんだよ! 心臓の鼓動は速くなるわ、変な汗までかいちまうわ、なんとなく息苦しくなったような気にもなったんだ。なにせ俊太の人生ではこの手のドキドキは初めてだからな。こんな風になってもしょうがないよなぁ?
「今日はいつもと服装が違うんですね?」
 その娘がニコニコしながら言うんだ。
「いや、普段はこういう格好してるんですよ、いつもは仕事だからあんな格好ですけど」
 俊太はテレながら言ったんだ。その娘はさらにニコッと笑うんだ。
……もちろん妄想だ。だってその娘は俊太のことなんて知りやしねぇんだから、間違っても話しかけれるなんてことはないだろ? 俊太みたいな冴えない野郎がかわいい女の子から話しかけれるなんてことは、汚いおっさんが尻の穴から赤ん坊を産むくらい有り得ないはずだ。
……そう、そのはずだったんだけどなぁ。
 電車がやってきた。プシュー。扉が開く。三角のスペースに立つ。前を見る。その娘はいつも通り前にいたよ。声かけられるなんて思ってもいなかったとはいえ、馬鹿だからほんのちょっとの期待はあったのかもなぁ。そういう期待することも楽しかったんだろうな。人を好きになるってのはこういうことなんだな、とか感じてたんだ。
 俊太はシャツの襟が立ってないか、ズボンのスソが折れ曲がっていないか、すげー気になったりして、ドアにはめ込んである窓ガラスで髪型もチェックしたよ。誰にも気付かれないようにな。もちろん誰も気にしてねぇからそれは成功したよ。
 そう、そのときだ!
“お名前は?”
 声かけられたんだ。しかも女の声だ。俊太は慌てて周りを見渡した。誰が声をかけてきたんだろう? ってな。
“あの、お名前は?”
 また聞こえた。だけどなぁ、声の聞こえ方がどこかおかしいんだよ。なんつーか、頭の中に響くような……、そう、俊太にしか聞こえていなかったんだ。俊太も周りの様子からそのことにすぐ気付いたよ。
“えっと、俊太っていいます”
 でも、俊太はおっかなびっくりしながらも一応、頭の中で答えてみたんだ。元々、気のいい奴だし、極力人の期待は裏切らないように生きてきていたしな。
“私は御堂詩織って言います”
 声が返ってきた。確実に頭の中だけに響いてる声に間違いなかったよ。
“あ、あの……、こ、これはいったい?”
 まぁ、聞くわな。
“私はこうやって頭で思い浮かべた言葉を電波に乗せて発信することができるんです。ただ受け手は今まで一人もいなかった、俊太さんもこの電車内にいるんですか?”
“あ、えと、まぁ、……はい”
“そうですか、私もです。私のこの電波を受け取ってくれる人が見つかって、私、とっても嬉しいです。私は今短大生なんですけど、俊太さんは何をなさっている方なんですか?”
“僕は、えと、……二十歳の大学生です”
 なんだか思わず嘘をついちまった。特にやりたいこともないフリーターってのが恥ずかしかったんだろうなぁ。しかも、状況がいまいち見えねぇし、テンパっちまってたってわけだ。
“そうなんですか、私は十九歳の短大生です。年近いですね?”
 なんだかわかんないまま、その日は適当にくっちゃべったんだ。
 いやいや、もちろん、俊太だってそこまで馬鹿じゃない。そのときは詩織と、女性と会話できたことに舞い上がっちまったけど、自分の頭がおかしくなって幻聴でも聞こえてきてしまったのではないか、ってことはしっかり考えたんだ。
だから次の朝、もしも、また声が聞こえたらあることを試そうと思ったんだ。
……次の朝、電車に乗るとまた声が聞こえたよ。
いくつかの会話をしたあと俊太は聞いたんだ。
“あ、あの……、とても失礼だとは思うんですけど詩織さん、あなたは本当に存在しているんですか? もしかしたら自分の頭がおかしくなってしまったのではないかと思いまして……”
“もちろん、ちゃんと存在してますよ。だけど、それをどうやって証明すればいいのでしょうか?”
“そうですね、なにか僕の知らないような知識を教えていただけませんか? 僕は帰ってからそれを調べるんで、本当に失礼だとは自覚しているんですけど、やっぱり怖くて……”
 詩織は丁寧に短大で学んでいる音楽療法について話してくれたんだ。当然俊太にはそんな知識は爪の先ほども持ち合わせていなかったよ。家に帰ってすぐインターネットで調べた。もしそれが嘘八百だったら自分の頭がおかしいってことになっちまうし、何より初めて仲良く話せそうになっている女性、詩織が存在しなくなっちまう。そりゃあ、クリックする指も震えてダブルクリックどころか、トリプルクリック、フォースクリック、フィフスクリックになっちまう。なんとか、その手のことが書いてあるページにたどり着いて、確認したんだ。
……詩織が言ってることは正しかったよ。
そのことで本当に詩織という自分以外の誰かが電波で話しかけているってことを確信することができたんだ。俊太は気付かなかったけど、ニンマリとした笑みがこぼれていたよ。南国のパイナップルみたいな笑みだ……我ながら酷い例えだな、忘れてくれ。
 そして俊太は一つの事をはっきりさせると、もう一つはっきりさせたいことが生まれてきたんだ。わかるか? そう、それはもちろん詩織が誰かってことに決まってるよなぁ。
 次の日だ。
 俊太は電波で会話しながらギョロギョロと周りを見渡した。誰だ? 誰だ? ッてな具合にな。そんで詩織に質問をしまくったんだ。
“詩織さんは――ですか?”
“はい”
 なるべく肯定の言葉を導くような質問をしたんだ。そして周りを見渡す。
 やっぱりどうしてもかわいい三角のスペースのあの娘に目が行くわけだ。
俊太は思わず小さくガッツポーズしちまったよ。
電波でした自分の質問に“はい”と返事が返ってくるときにその娘は首を小さく縦に振ったんだ。それも何度も何度も、絶妙なタイミングでよ!
俊太の中で三角スペースのかわいいお嬢様=詩織ってな図式ができあがったよ。

 それからな、二人は電波で俊太のバイト先の最寄駅に着くまでの約三十分、ほぼ毎日会話することになったのよ。ありえねぇって? いやいや、この世の中何が起こっても不思議じゃないだろ? 子供が子供をポンポン生む時代だ。汚いおっさんが尻の穴から赤ちゃんを産むことだってたまにはあるだろ? いや、それはないな、はは。でも、そんなくだらないこと気にしてたら周りからどんどん取り残されちまうぜ? そうだ、兄ちゃん、ついでだ。いいこと教えてやろう! 想像できる事はなぁ、全て起こりうることなんだ。多少、形は変わるかもしれないけどな。ともかく、くだらないこと気にして無駄に時間を使うくらいなら黙って聞いてりゃいいんだよ。話はまだまだ続くんだからな。
 それから二人は毎朝いろんな話しをしたんだよ。例えば、好きな本、好きな映画、好きな音楽、どれに関しても俊太と詩織の趣味はてんで合わない。だって、俊太は、こち亀、スターウォーズ、サザンオールスターズ。詩織は、罪と罰に、ライムライト、ワーグナー。でもね、それが逆に功を奏したんだ。詩織の周りにはない世界観だったんだろうな? キャッキャッと楽しそうに聞いてくれるんだよ。俊太は詩織が笑うたびに胸が高鳴るんだ。ふわふわと浮遊するような気持ちになるんだ。
“そろそろお互いの顔を見せ合いませんか?”
 電波で話し始めて二週間くらい経ったときだったよ。この詩織の言葉……っていうか電波に乗せた信号っていうか、まぁ言葉でいいか? そう、この言葉で俊太のふわふわと浮ついていた気持ちはそりゃもう十キロ、いや、二十キロの鉄アレイみたいに重くなったんだ。いやいや、三十キロって言ってもいいかもしれないなぁ。え? 重さなんてどうでもいいって? 確かにそうだな、まぁ、メチャクチャ気が滅入ったってことだ。
 俺の姿を見せるわけにはいかない、こんな顔だってバレたら、しかも嘘をついている。俺は大学生なんかじゃない……。こんな風に思ったんだよ。
“……いや、このままの関係を楽しむってのもよくありませんか?”
 ……言っちまった。本当はねぇ、会いたかったし、自分を知ってほしかったんだよ。でも、言っちまった、まぁこう言うしかできなかったんだな。
 よくルックスなんて関係ないわ! なんて優しそうな女の子は言うけどよ、まぁ、嘘をついてるわけではないんだろうけど、やっぱり、それにも限度はあるだろ? 俊太はね、自分がその限度を超えてるってのを自覚してたからな。どうしても、顔を合わせた途端幻滅してしまう詩織の顔を思い浮かべちまうんだ。そうすると、それはもう悲しい気持ちになるし、情けない、やりきれない気持ちになるわけよ。鉄アレイは百キロを軽く超えるんだ。
 結局、俊太はなんとか、詩織を納得させたんだ。
そして、今まで通り顔を合わせないまま、電波で会話する日々がさらに数週間が過ぎる。
その間にもお互いの事をたくさん話したよ。知り合ってからそれなりの時だって過ぎたんだ。そりゃ自分の内面とか、悩みについても話すことになるよな。
俊太はやっぱり良い奴だよなぁ……。自分が大学生じゃなくてただのフリーターだってちゃんと告白したんだよ。それでな、自分がいったい何をしたいのかわからないってことも話したんだ。
“それはきっと一生かかって探すものですから、ゆっくりで、焦らないでいいんじゃないですか? 本当にやりたいことが自分で何かわかっている人なんてそんなにいないんじゃないですかね?”
 詩織、いい事言うよなぁ。俺は感激したよ。賛成だ。突き詰めて考えると本当にやりたいことなんて大抵ないんだと俺も思う。やりたくない事は山ほどあるんだけどなぁ。そっから見つけていくもんだと思う。だけど、男ってのはよ、女に優しくされると、自分が弱くていいんだと勘違いしてしまう生き物なんだろうな。俊太は生まれてきてから今まで、誰にも言った事なんてない、こんなことも言っちまったよ。
“なんで生きていなきゃいけないんだって思うことありませんか? 僕みたいなのが生きていてもなんの役にも立たないし、楽しい事なんてないし……、いや、楽しい事だけじゃなくて、何もないんです。……生きていなきゃダメなんですかね?”
 詩織はちょっと怒って言ったよ。
“当たり前です! 世の中には生きたくても生きれない子供だっているんですよ? 俊太さんが死んだら周りの人が悲しみますよ!”
“でも、僕には仲の良い友達なんていないですから、きっとこれからも出来ませんし……”
“俊太さん、私はあなたが死んだら、とっても悲しいですよ?”
 俊太はコレが言われたくてその言葉を発信したのかもしれないなぁ。だからめちゃくちゃ嬉しかったんだ。兄ちゃんも気をつけな? 女に甘えるのは癖になるからな!
“本当ですか? 嬉しいです。俺がんばります” 
 俊太はやっぱり話してると楽しくてしょうがないんだ。なんだかんだ言って会いたくてしょうがないわけだ。でも、会うとこのドキドキと楽しい全てが終わってしまうんだよ。せつねぇ悩みだよなぁ? 顔なんて自分のせいじゃないのによぉ。
解決策をたくさん考えたんだ。詩織と顔を合わせても大丈夫な方法を、でもね、その方法は整形くらしか思い浮かばなくてな、いやいや、整形することに抵抗があるとかそんなんじゃなくてよ、金持ってないから整形もできないんだ。出来る事ならしたかったさ、なんだってやったさ。でもその力もないんだ。苦しくてなぁ、別にルックスの善し悪しなんて、時代によっても、国によっても、人によっても違うってのにな、そんなにも、あやふやなくせにそれで人生変わっちまうからなぁ。別に不細工が不幸せになるってわけじゃねぇぞ? その逆に男前だからって幸せってことはもちろんないよ。ただな、俊太が男前だったらやっぱり人生は変わるだろ? 幸せになるとは言えないが、違ったものになるのは明白だろ? やっぱ、男女関係において、特に若いうちは男前と不細工じゃやっぱり何かが変わってくるわけだよ。俊太はその不条理に何度苦しんだ事か、何度人を羨んだことか……。
でも、俊太だって詩織がメチャクチャかわいかったから大好きになったんだよ。矛盾してるよなぁ。でもねぇ、俊太の名誉のために言わせてもらうけど、今はきっと詩織の顔がどんなに汚らしくて俊太は詩織が好きだよ。だって、優しいんだ。しかも、こんな面白くもない自分と毎日話してくれる人なんて今までいなかったんだからな。
……俊太は本気で恋しまったんだよ。兄ちゃん、本気の恋ってどういうことかわかるかい? そんなことは一生わかるはずがないって? それがわかったら誰も恋で苦労しないって? まぁ、兄ちゃんの言う事もわかるけどな、でもな、どんなことも結局答えはシンプルなのよ。恋の苦労ってのは結局、相手にわかってもらえないとか、伝わらないとか、そんなことだろう? 前提が間違ってるのさ。本気で誰かを好きってことはね、無償であること、それなのよ。え? 無償の愛なんて存在するのかって? さぁ? 俺はまだ見たことも、食べた事もないなぁ。でもさ、俊太はかなりそれに近いくらい詩織が好きなんだ。確かに詩織に愛されたらどんなに嬉しいかなんてことは、いつだって考えるよ。その時点で無償とは言い切れないかもしれないけど、なんつーか、えと、そうそう、あれだ。

……そう、つまり、俊太はねぇ……、うん。詩織のためなら死ねるのさ!
 
話はこの事実を踏まえてクライマックスに向かうんだ。
 その日も俊太は電車で詩織と電波で会話してたんだよ。もちろん楽しくなぁ。内容は、好きな犬の種類とか、そんな他愛もない話。
するとな、突然、今まで聞いた事もないようなボリュームで詩織の声が頭に響き渡ったんだ。
“助けて! 殺される!”
 俊太は慌てたよ。なんてったって会話になんの脈絡もないんだ。チワワの話からいきなり“殺される”だぜ? 意味わかんないよな? もちろんすぐに詩織の様子を伺ったよ。
……その顔はまるで、雲一つない晴れ渡る青空みたいに真っ青だったよ。え? 表現がおかしいって? おいおい、せめて斬新とか言ってくれよな! しかも今いいとこなんだ。頼むから話の腰を折らないでくれよ! 了解か? よし続けるぞ。
“いったいどうしたんですか?”
 俊太は聞いたよ。するとな、
“私の…横にい…る人が私……を殺そうとし…てる”
 詩織がざらついた電波で伝えてきたんだ。俊太は詩織から視線をその横の男に移した。眼鏡をかけた背の高い細身のサラリーマンだ。ピッチリ七三のその男には特に怪しい様子もない。
“いや、特に怪しくもないんですけど?”
“……私にはわか…るんで…す。電波が飛ん……でく…るんです。殺し…てや…る、殺して…やる、殺してや……るって、何度…も何…度も”
 なんだか電波がだんだん弱くなってきたんだ。俊太は焦ったよ。途切れてしまうんじゃないかって、この生きる糧とでも言うべきこの電波か途切れてしまう……、そう思うと、もう頭がどうかしてしまいそうになったんだ。
俊太は考えたよ。助けなきゃって。そうしないと電波が途切れてしまうって、いや、それより何より、詩織が自分に助けを求めてきたんだ。期待に答えなきゃってな。でも、いったいどうやって助ければいいのか? それがいまいちピンとこない。
“この…男の人を……止め…てく…ださい。私は…このあま…りにも強す……ぎる電…波で体が……全く動…かないんです。お願いし―――”
ついに電波は途切れちまった!
うわぁ〜!! 嫌だ、嫌だ、嫌だよ! 俊太は頭がカ〜っと熱くなったよ。でも詩織を救う方法はわかったんだ。そう、あの七三を止めればいいんだ。実践あるのみだ。七三を羽交い絞めにして止めよう。
……でも顔がバレたら、この醜い顔を見られたら嫌われるかもしれない……。一瞬思ったんだ。でもねぇ、俊太だって男だよ、すぐにそんな情けない考えはすぐに消え去ったさ! 嫌われたってかまうもんか! 詩織が殺されるよりかはずっとましだ! そうだ、俺が詩織を守るんだ! 俺以外には守れないんだ! って思ったんだ。
かっくいーよなぁ?
でも、一つだけ考え直した事があったんだ。俊太は力なんてないし、もし、羽交い絞めをかいくぐられたらどうしよう。そうなったら元も子もない。確実な方法で俺に注意を向けなければ……。
 さぁ、兄ちゃん、ここでクイズだ! 俊太は何を使って詩織を守ろうとしたでしょうか?
素手? 違うなぁ。俊太の今日のお弁当がオムライスってことを思い出してくれよ? え? 聞いてないって? そりゃ言ってねぇからな! まぁ、正解はオムライスを食べるためのフォークだよ! そんなのわかるわけないって? 兄ちゃん、そんなふうに初めから何もかも無理だって決め付けてたら、夢なんて叶えられねぇぜ? 男は“無謀な夢”ってものをいかに実現していくかってところに真価を問われる生き物なんだぞ?
 俊太はお弁当袋から慌てて銀色に光るフォークを取り出したんだ。
 ギュッと握って眼鏡のサラリーマンの様子を伺った。眼鏡のサラリーマンがすっと詩織のほうに動いたよ。七三分けの下の眼鏡の奥の目は詩織をべっとり捕らえていたよ。その眼鏡の奥の、その下にある口が小さく動いたんだ。

「コ・ロ・シ・テ・ヤ・ル」

 その口の動きを読み取った俊太はぞわっと体中の毛が逆立ったよ。あそこの毛だって例外じゃないさ!
 危ない詩織! 俊太はダッと七三との距離を詰めた! 次の瞬間サラリーマンの頬に突き刺さったフォーク! 一瞬遅れて血が頬から噴き出した。七三はイマイチ自分に何が起きたかわからないような顔をしているよ。 
 俊太は詩織のほうに振り返った。でも、詩織とは目が合わないんだ。なぜか、詩織は俊太の頭越しの何かに視線を向けてるんだ。
「きゃーーーーーーーー!!」
詩織が悲鳴を上げたんだ。そして、頭を抱えてしゃがみこんだ。
どうして? やっぱり詩織なんていなかったのか? 俺の妄想だったのか? いや、それともやっぱり俺の顔が不細工だから? 気持ち悪かったから? 一瞬でいったい、いくつの事を考えただろうか、俊太は頭が真っ白けっけになったよ。
 だけどな、次の瞬間、詩織の悲鳴の理由がわかったんだ。背中に今まで味わったことのない妙な感触を感じたからな。しかも胸から何か飛び出してきやがった。何だと思う? 子供のエイリアンじゃないんだ。それはな、
……包丁の切っ先さ!
 激しい痛みが俊太を襲ったんだ。痛みなんて言葉で形容しきれないほどの激痛だ。
 俊太は包丁の侵入してきたほうを振り返る。七三の顔はまさに鬼の形相だったよ。そして、神経質な金切り声で叫ぶんだ。
「てめー、何しやがるんだ。この不細工!」
電車内はそりゃあパニックになったよ。わーだの、きゃーだの、中にはイ〜っなんてなる奴もいたくらいだ。でも俊太だけはパニックじゃなかった。ちょっと嬉しがってんだ。なぜかって?
そりゃ詩織の悲鳴の理由が自分じゃなかったからだよ。
 俊太から包丁が引き抜かれた。背中から、胸から血がどばっと噴き出してきたよ。口からだって大量の吐血だ。その全てに激烈な痛みが伴っているんだ。
 だけど叫び声一つ上げなかったよ。
なんてったって、それどころじゃないんだ、その俊太から引き抜かれた包丁が詩織に迫ってんだからな! 七三の狙いはやっぱり詩織だったんだよ。俊太はなおも体をずらして胸でその包丁を受け止めたんだ!
そりゃ、もう、ぐさ〜〜〜って刺さったよ。宇宙一刺さったさ!
いや、後悔なんてなかった。
……俊太は自分よりも詩織が大事だったんだ。自分が死ぬ事なんかより詩織が生きている事のほうが断然優先されるべき事だったんだ。
俊太に包丁が刺さっている隙に近くにいた若い男が七三を取り押さえた。それを機に何人かの男が七三に覆いかぶさる。狂った組み体操みたいだな?
 俊太は膝を突いて、前のめりに倒れたよ。立っていられるはずがない。体の中心を二度も刺されたんだからな。俊太の体の下はまさに血の海だ。死海なんて表現したらお洒落にかい?
 電車内はさらにパニクってなぁ。現場に近づく奴や、離れる奴、そいつらの押し競饅頭状態。自分の意思でどこかにいることなんてそこの誰にもできなかったよ。
 そんな世界で俊太は思ったんだ。“前のめりでよかったなぁっ”てな。だって醜い顔を詩織に見られなくてすむから。
 そして、心の底から思ったんだ。

“生きててよかったなぁ”

今まで生きていて良かったなんて思ったことなかった俊太が本気で生きていて良かったって感じたんだ。
だって最後に好きな人を守れた。まるで映画の主人公みたいじゃないか、ってな!

 そのとき電波が頭に響いてきんだ。
“俊太さん!!”
“……なんですか? 詩織さん”
 俊太のその電波はそりゃ優しい響きだったよ。
“私の身代わりになってくれた人は俊太さんですか? 私のために……、ごめんなさい、本当にごめんなさい、私なんて言っていいか……、私が助けてくれだなんて言ってしまったせいで、こんなことになるだなんて思ってなかったんです”
 俊太は一瞬、誤魔化そうかと思ったよ。あれは自分じゃないって。詩織に罪の意識なんて感じて欲しくなかったからな。でもね、きっと明日になれば電波を受け取る人がいなくなるからバレちまうって思ったんだ。そしたら詩織はもっともっと自分を責めかねない。だからね、正直に言ったんだよ。
“詩織さん、違うんです……、これは僕のためなんだ。あなたが罪の意識を感じる必要はまったくありませんよ。だって僕は満足してるから。僕はこのままただ生きているよりこうやって死ねたほうが嬉しいんです。誰かのために何かが出来るってことは幸せな事ですね? だから、気にしないで”
“そ、そんな……、俊太さん……”
 詩織の電波は酷く悲しそうな響きだったなぁ。
“俊太さん、私このパニックであなたの傍から離れてしまったの、でも待ってて、すぐに行きます”
“いや、詩織さん、最後に約束してください。どうかそのまま、電車を降りてください。僕を見ないでください。お願いします。僕は醜いから……あなたに見られたくないんです”
“何言ってるんですか! 私そんなこと気にしないから――”
 俊太はその電波に割り込んで電波を発信したよ。それほど必死だったんだ。
“お願いです! どうしても見られたくないんです、ねぇ、詩織さん、僕ね、馬鹿みたいですけどあなたが好きだったんです……。だからこんなことになっても悲しくないし、いや、むしろ誇りに思っています。あなたのためにここまで出来た自分を、最後に自分が好きになれました。ですけど、どうしても詩織さんにだけは僕の姿を見て欲しくないんです、せめて、あなたの中でだけは美しくいたいんです。僕の最初で最後のお願いです。どうか聞いてやってください”
“………わかりました”
“ありがとうございます。詩織さん、あなたと会話できて嬉しかった。本当にありがとうございます。幸せになってください……”
 ……俊太の意識はそこで途切れちまって、二度と戻る事はなかったよ。最後の言葉の返事も結局聞けずじまいさ。
 物語はこれで終わりだ。ふぅ〜、幸せな話だったろ?
 え? 悲しい話だって? いや、ここまでは幸せな話だろ? だって誰も不幸になっていない。俊太は自分の命を愛する人のためにささげて笑顔で死んでいったんだ。俺だって切ないとは思うが、幸せだったと思うぜ? 今の時代こんな死に様できる男が世の中にどれだけいると思う? いないだろう。やっぱり愛する人を守ってかっこよく死ぬってのはなんだかんだ言っても、男の理想だ。断言してやる。俊太は幸せだったんだ。
……だけど、こかっらの話を聞くときっとこの物語は少し悲しい話に変化しちまうことになるんだろうなぁ。聞きたいか? そうか、聞きたいのかぁ……。あぁ、でも、どうしようかな……、言わねぇほうがいいかもしれねぇなぁ。知らないほうが幸せってことはあるんだよ。きっと後悔するぜ? 覚悟はできてるかい? そうか、ならしょうがねぇな……。
とか言って、本当は覚悟があろうがなかろうが、無理やりにでもきかせるつもりだったがな、ははは。しかも、兄ちゃんから聞きたいって言われたら、言うしかねぇなぁ。残念だなぁ。
あのなぁ、俊太が助けた女、ありゃ、詩織じゃねぇんだ。山田美智子っていうキャバクラ嬢だったんだよ。毎日会うのは山田美智子の仕事帰りだったんだ。あの時は眠くてな、コックリコックリしてて、俊太は質問に答えてくれてるって勘違いしたんだろうな。最後の朝だって青い顔してたのは、質の悪い客にずいぶんと飲まされたからってだけだしな。ちなみに源氏名は“飛鳥”だよ。なんの関係もないがな。
え? それじゃ詩織は別の人かって? いやいや、ちょっと考えてみろって、それじゃ最後の電波の交信の辻褄があわないだろう? わかった。真実を教えてやるから心して聞けよ?
……実はなぁ、御堂詩織なんて名前の娘は元々いねぇのよ!
俊太はね、周りから電波が飛んでくるような気がしてしまう、そういう病気になっちまってただけなんだ。そうだよ、全て俊太の妄想だったんだ。
おっと、待ってくれ、だからってやっぱり救いのない話じゃねぇんだ。
あの七三は本物の人殺しで、今朝、自分の妻を殺したんだ。それでも、習慣で一応は出勤してたんだけどなぁ、途中で何もかもどうでもよくなってよ、家に置いておけなかった妻を刺した包丁でたまたま近くにいた山田美智子を殺そうとしたってわけだ。そして、俊太は山田美智子を助けたんだよ。悪い話じゃないだろ?
しかも、俊太の中では誰がなんて言おうが、恋のために、大好きな詩織を守るために命を落としたんだし、死んじまったから何をどうしようがそれが覆るはずはないんだ。
なぁ? 素晴らしい話だろ? 俺は思うんだ。これは幸せなんじゃねぇかってよ。結局は自分が幸せと感じるかどうかにあるはずだろ? いくら周りが幸せな奴だって言っても本人がそう感じていなかったら幸せじゃない。つまり、俊太みたいにその逆も当然あるんだ。俊太が最後に幸せだって感じたのなら、誰かがいくら“そんなの幸せじゃない”って言っても俊太の幸せはゆるぎないだろ? そういうことなんだ。
でもな、兄ちゃん、気をつけろよ? 所詮電波は電波さ! 現実じゃないんだ。俊太は狂ってただけだ、ってことを忘れちゃいけねぇ。
もしも、兄ちゃんに電波を送ったり、受け取ったりする能力があったとしても気をつけろよ?
なにせ狂いきれなかったら、確実に生き地獄だからな!

**********

「――だからな!」
 話を終えたピエロが大掛かりな手品を成功させたマジシャンのように深くお辞儀をした。しかも、まるで二階席があるかのように何もない空に手まで振っている。
「ふぅ〜、どうだった兄ちゃん? 楽しかっただろう?」
 ピエロは満足げな顔を作ってゆっくりと腰を下ろす。
 ……それにしてもこの話はいったいなんだったんだろうか? わけのわからない話だった。
……しかも矛盾がある。
「……あの、俊太は音楽療法だかなんだか、自分の知らない知識について聞いたって言ってましたよね?」
「あぁ、言ったよ」
「だったらそれこそ辻褄合わないんじゃないんですか? 詩織ってのが存在しないと――」
「はっはっはっは!」
 何がおかしかったのかピエロは俺の言葉を遮って大笑いを始めた。
「ひぃ〜、笑わせすぎだよ兄ちゃん! 腹が痛てぇや……。それじゃなにかい? 桃太郎の犬、猿、雉がしゃべるのはおかしいよなぁ、人間は熊に相撲で勝てないだろう? おわんで旅する小人はその存在自体が辻褄合わないだろ?」
「は? 何言ってんすか?」
「意外と物分りが悪いんだな? つまりだ、お前の人生は全て辻褄が合っているのかい? ってことだよ」
「それは完璧な論理のすり替えじゃないすか? しかもあんまり上手くすり替えてもいないし……」
「あのなぁ、兄ちゃん、大切なことを教えてやろうか? 辻褄ってのは自分で合わせるもんなんだよ。どうしても納得のいかねぇことってあるだろ? 不条理はいつでも起こりうるだろ? でもな、そんな時は自分自身の中でなんとか、無理やりにでも辻褄と帳尻を合わせていくんだよ。結果と成り行きからなんとなく納得する答えを見つけなきゃならないんだ。そうやってみんな生きてるんだよ。……てことで、この物話の辻褄合わせは自分の中でやってくれ!」
 そう言ってピエロは肩をすくめた。
 ……はぁ、こいつ何言っても無駄だな。これ以上まともに取り合っても疲れるだけだろうな。
だけど確かに辻褄なんてものは自分で合わせりゃいい、ってのは当たってるかもしれない。
そうだ、例え浮気されたとしても俺は詩織が好きだ。なんとか理由を見つけて詩織を許してやろう。このピエロの言うとおり自分の中で辻褄を合わそう。俺にはあいつと別れる気なんてないんだから、そうするしかないだろうな。
……あれ? そういや、なんで俺の彼女の名前が登場人物で出てきたんだ? しかもフルネームで……、偶然……か?
「いやいや、兄ちゃん、惚けるなよ、偶然なんかじゃないだろ? 兄ちゃんが俺に電波を飛ばしてきたくせによ!」
 語り部ピエロと名乗る変人は目がなくなるくらい細めて笑った。



電波男 終

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