風に吹かれて消えちまう



第一章 再初対面



「美樹!!」
 居間から母親の声が聞こえてくる。結構な大声。どこか棘のある声。どうやら怒っているようだ。
「――あんた今日から高校生なんだからもうちょっとしっかりしなさいよ! 入学式に寝坊して遅刻なんて、お母さん恥ずかしいったりゃありゃしないよ!」
 朝っぱらから元気な人だなぁ〜、なんて思いながらも美樹は自室で真新しい制服に袖を通し、野暮ったい声で、
「はいはい、わかってるって」
なんて答えた。
まぁ、確かに母親の言っていることは間違ってはいないだろう。入学式に遅刻なんて当然好ましいとは言えない。
「まったくあんたはいつでも緊張感がないんだから―――」
 居間から聞こえてくる声はなにやらブツブツと呟く声に変わった。薄っすらとしか聞こえてこないが、きっと美樹の子供の頃の“緊張感のないストーリー”のことを思い出して、口にしているのだろう。このままでは小学二年生の遠足での、あの話をクドクドと言われかねない。そう察した美樹は珍しく急いで学校に行く支度を済ませ、玄関に小走りで向かった。それは出かけるというよりも脱出に近い。
「――んじゃ、行ってきまーす!」
 靴を履きながら母親に大きな声でそう告げると「朝ご飯は食べないの?」という声が返ってくる。それに対し「明日食べるよ」なんて適当なことを言い残して、玄関の扉を勢いよく開け団地の階段を駆け下りた。

 武藤美樹は今日から都立高校に通うことになった十五歳の高校一年生だ。
 通う高校は中学校の担任曰く、それ程のレベルの高校ではないが美樹の学力からすると入れたのは奇跡だ! とのことだった。美樹自身も受験の際に努力した記憶がなかったため入学出来たのは運が良かっただけだろうと思っていた。なにせ合格の事実に一番驚いたのは美樹自身だったのだから。しかし、少しだけ憂鬱もある。もちろん美樹の事だから学業がどうとかそういったことではない。
それは時間と距離。
 自転車で駅まで行き、電車で四駅、そして最寄り駅から学校までは徒歩。合わせて四十分掛かる通学路をこれから毎日通うことになる。実際のところ、たいしたことのない距離ではあるが、家から中学校まで五分で行けた美樹にとってはそれだけの距離でも十分憂鬱の種になり得るものだった。今、慌てて自転車を飛ばさなければならない原因もその辺りに起因しているのかもしれない。いや、本当の原因はやはり美樹ののんびりとした性格と緊張感の無さだということは言うまでもないのだが。 それでも、今日は入学式、のんびり屋の美樹にしたって遅刻は極力避けたいところだった。小さな息を一つはき、サドルから腰を浮かせると、美樹は駅までの道を立ち漕ぎですっ飛ばした。
景色はぎゅんぎゅんと後ろへすっ飛んでいく。美樹と同じく真新しい制服を着た他校の生徒や、OL、サラリーマンなども景色の一部と化しすっ飛んで消えていく。
 スピードを一度も殺すことなく、駅の脇にある駐輪所に入り、乱暴に自転車を止め、今度は自分の足で走った。俗に言う“ダッシュ”。中学生のときに所属していたバスケ部にろくに参加していなかった美樹にしたら何年かぶりの“ダッシュ”だっただろう。
ようやく駅構内に入り切符を買おうとするが、そこにはある程度の長さの列が販売機の数だけずらりと並んでいた。息を切らしながら、なんとなくで、その一番右端の列の最後尾についた。そこでゆっくり息を整えていると、その列はするすると左側のどの列よりも早く美樹を列の前に運んでいった。
そして、三分足らずで美樹の番まであと一人というところまで進んだ。他の列に並んでいたらまだまだ切符は買えていなかっただろう。
へへ、ラッキー。きっと俺の日ごろの行いが良いからだ。あれだ、一昨日俺が空き缶をポイ捨てしている人を見て“そういうの、やめたほうがいいのになぁ”なんて思ったことを神様みたいなのが見てくれていたんだろう。
そんな風に浮かれていたのも束の間、美樹の目の前にいたお婆さんで美樹の並ぶ列はピタリと動く事を止めた。何でどう間誤付いているのかはわからないが、ともかくそのお婆さんがそこから動く事はなかった。
少しの間待ってみた。その間にも左側の列はどんどん進んでいく。ちらりと時計を見た。遅刻せずに学校に着くことの出来る電車が駅に到着するまであと十分ほど。自転車を飛ばしたおかげで大分余裕のある時間に駅には着いていたようだ。慌てなくても大丈夫だろうと判断し、また少し待った。
しかし、相変わらずお婆さんは動かない。時計を見る。五分前。
……どうした老婆?
美樹はお婆さんの肩越しにその手元を覗いてみた。お婆さんの手は一切動いていなかった。それどころかお婆さんは目を閉じていた。
……瞑想?
時計を見る。四分前。さすがに待っていられない。美樹は声をかけてみた。
「――あの、どうかしましたか?」
 ゆっくりと振り向くお婆さん。目をゆっくり開きニコリと笑う。日本昔話で頻繁に見かける炊き立ての白米の香りがしてくるような笑顔。美樹も笑い返す。ニコリ。
「…………」
 見詰め合う事暫し。お婆さんは何一つ言葉を発することなく販売機に向き直る。そして動かない。……ダメだこりゃ。美樹は笑顔を作ったまま思った。
三分前。苛ついてしまいそうな気持ちを抑えようと思うが、横の列はドンドンと前へ進んでいく。挙句の果てには先ほど一つ左の列の最後尾にいたはずの女子高生にも抜かれてしまった。そんな光景を見ると平静ではいられない。なにせ、このままでは入学式に遅刻してしまうのだ。よし、もう一度声をかけてみよう。
「え〜と、どこまで行くんですか?」
 お婆さん、振り向いてニコリ。白米の香り。
「――もしよかったら、俺が操作するんで行き先を教えてくださいよ!」
 いかにも好青年、そんな笑顔で言った。しかし、お婆さんはニコニコと笑っているだけ。……あぁ、まったくもって埒があかない。
「……あの、聞こえて…ますか?」
 美樹の声からだんだんと覇気が消えていった。お婆さんは相変わらずニコリと笑っている。………このババア、……ダメだダメだ。老人を敬う心を忘れるわけにはいかない。だってこの人たちが平和な日本を作ってくれたんだ。感謝の気持ち。そう、感謝の気持ちだ。
「……えっと、どこに行きたいんですか?」
 お婆さんは無言で美樹の目を見つめ、それはそれは優しい笑顔。……はぁ〜。美樹はうなだれた。
「――あ、お婆ちゃん!!」
 美樹が肩を落としていると背後からそんな声が聞こえてきた。子供、男の子の声。振り向いて見ると父、母、兄、妹、で構成された、いかにも“仲良し家族”といったような家族が手を振り歩み寄ってきていた。
「お母さん探しましたよ」
 “母”が言う。
「まったく、母さん何やってんだよ、切符なんて買わないんだからこんなところ並ばなくてもいいのに」
 そんな言葉がいくつか投げかけられ、お婆さんはその家族に連れられ列を離れていった。お婆さんはずっと笑顔でその息子夫婦の言葉に、うんうんと頷いていた。……はぁ? 俺はいったい何をしていたんだ? 俺はいったい……、あれ、俺は誰だ? ん? ここはどこだ? 美樹がその家族の幸せそうな背中を見ながら大袈裟に途方にくれていると後ろから、
「おい! 早く切符買えよ、後がつかえてるんだよ!」
 なんて大声が飛んできた。お婆さんには言えなくても男子高校生には言えるらしい。
 不満は相当あったが言い返すことなく切符を買った。結局、切符を買ったときには当初残っていた“ダッシュ”での余韻である息切れなんてものは完璧に治まっていて、もはや初めから息なんて切らしていないかと錯覚するほど時間が過ぎていた。
やっと手にした切符を手に改札を通ろうとした時、美樹の目は自分の乗るはずだった電車がドアを閉め出発する瞬間をしっかりと捕らえた。つまり、遅刻せずに学校に着くことの出来るギリギリの電車には乗り遅れてしまったというわけだ。
美樹は自動改札のど真ん中で立ち尽くし、電車を見送るしかできなかった。
“もっと余裕を持って朝起きればよかった”
 ではなく、
“はぁ〜、こんなことならあんな急いで支度するんじゃなかったなぁ”
なんてことを心から思った。
そう思った瞬間、美樹の腹が切なげな音を立てた。“ぐ〜〜っ”というあの音だ。朝食を抜いたからであろう。………いっそのことこのまま餓死してみようかな。腹の音は美樹をさらに落胆させ、いじけた気持ちにさせた。
美樹がぼけっと立ち尽くしていると、背中をぐいっと押された。振り返ると、年配のサラリーマンがさも迷惑そうに美樹の顔を一瞥し、美樹を改札の先まで押し出して、そのまま駅構内の群集に姿を消していった。
「……まったく、一言、ごめんよ、とか声を掛けてくれりゃどくのによぉ…」
小さな声で呟いた。そのとき、またもや腹がぐ〜っと気の抜けた音を立てた。二度目のその音は美樹を落胆させることはなく、いい具合に力を抜いてくれた。美樹はもう遅刻することが決まっているなら別にそんな急ぐこともないな、と思い直し、ふぅっと小さな“まぁ、いっか”の意味合いを持った息を、ため息と同時に吐き出し、駅構内を見渡した。立ち食い蕎麦屋を発見した。その立ち食い蕎麦屋には子供の頃、父親に連れられて一度だけ入った記憶があった。しかし、一人で入ったことはない。なにしろ電車で学校に通うということ自体今日が始めてなのだから。
美樹は財布と軽い相談をして立ち食い蕎麦屋に入ることに決めた。
 テクテクと、清潔感があるとは決して言えない外装の立ち食い蕎麦屋の目の前に向かい、古びた扉をガラガラと開けた。瞬間、美樹の視界は湯気で白く曇った。そして店内に一歩入ると店員のおばさんの、かったるそうな「いらっしゃいませ〜」というダミ声が美樹を迎えてくれた。店内では中年のサラリーマンや、大学生風の若い男など数人が肩を並べ、皆一様にそばを啜っている。その背中が美樹に“大人”と“男”を感じさせた。それと同時に、その光景は子供のころ見たことがあるはずなのに、自分の目線が大分上がったためかとても新鮮なものにも映った。少しだけワクワクする。
 食券の販売機の方に目を移すと、サラリーマンが一人いて、食券を慣れた手つきで買っていた。そんな姿にも少し“大人、男”な雰囲気を感じてしまう。美樹はその手の動きを必死で覚え、それを真似て一番安い掛け蕎麦の食券を買った。そうすると“俺ももう中学生じゃないんだな”なんて子供丸出しの考えを、さも自分が大人であるかのように感じた。
 空いているスペースに入り、三角巾をしたおばさんに食券を手渡す。何分と待たずに掛け蕎麦は美樹の目の前に用意された。ちなみにそのとき、おばさんからは「おまち」だの「はいどうぞ」だの、そういった声は一切なく、無言で流れ作業のようだった。美樹は湯気だった蕎麦に七味を掛け、割り箸を割り食べはじめた。特においしい、なんて思わなかったし、実際、そんなにおいしいものでもなかったが、味気ない店の内装、味気ない蕎麦の味、おばさんの声、態度、すべてに共通したこの“無愛想でいて人情的”とでもいうような、そんな立ち食い蕎麦屋の雰囲気は気に入った。愛すべき無愛想だなと感じていた。
美味くも不味くもない蕎麦をそんな雰囲気と共にゆっくりと味わい終えると美樹は隣の大学生を真似て器を一段上の台に置き「ごっそさん」と言い残し店を出た。
美樹は、かなりの遅刻しているのだが急ぐようなそぶりを全く見せずゆっくり階段を登り、わざわざ一本電車を見送ってからようやく次の電車に乗って学校に向かった。
美樹は、もうこうなったら逆に、意地でも急いだり、慌てたりしない、と決めたのだった。
そのため、学校の最寄り駅に着いてからも、誰もいない通学路をゆったりとした気持ちで景色なんかをのんびり眺めながら学校に向かうことが出来た。野に咲く小さな花を立ち止まって眺めたりもした。日差しも心地よかった。お日様に感謝した。コンクリートの道も十分に日の光を浴び暖かく、どこか春を感じさせてくれたような気がした。この道路を作った作業員にも感謝をしようと思ったが、どの方角にその人がいるのかがわからなかったため、一応、東西南北の四方位全てに軽く会釈をしといた。美樹には目に移る全てのものが心地の良い光景に映った……というわけではない。先ほどの、絶対急がない、慌てない、の決意が美樹にこんな行動をさせていたのだ。しかし……。

“……やばい…、あぁ、どうしよう……”

のんびりゆったりとしていた美樹の気持ちは学校に着いた途端、一変して困惑に変化した。まったく自分が何処へ向かっていいかわからなかったのだ。とりあえず向かった入学式を行っているはずの体育館はことをすでに終え、もぬけの殻になっていた。がらんと広がるそこは耳鳴りがしそうなほど、しーんと静まり返えり、たくさんのパイプイスが並んでいて、ちょっとした心霊スポットのようだった。はぁ〜、初日からこれじゃ先が思いやられるなぁ……、美樹はわざとらしく他人事のように思っておいた。
 体育館から出ると校庭に向かって歩いた。その行動の理由は自分の行くべき場所がさっぱりわからなかったから、ということと、来るときに校庭の端に桜並木を見つけていて、その木々が春という季節のお陰で、どの木も血気盛んに咲き競っていて、とても綺麗だったから、ただそれだけだった。そう、美樹はもうどうでもよくなっていたのだ。
 桜並木の下に着いた美樹は、その下にいくつも積んであった目的不明の古タイヤを見つけ、それに深く腰を下ろした。満開の桜の枝の隙間から空を見上げると、暖かい春の日差しが桜の花びらと共にヒラヒラと零れ落ちてくる。ふぅ〜っと得意の“まぁ、いっか”の意味合いの強いため息を吐くと、少しウトウトとしてきた。……うん、もういいや、とりあえず寝ちゃおう。さて、何を枕代わりにしようかな……。そんなふざけたことを本気で考えていると、前から足音が聞こえてきた。見るとジャージ姿の中年の男性がゆっくりと歩いてきている。きっとこの学校の教師だろう。
「お前、何やってんだ?」
 遠くから話し掛けてくるその教師はどこか怒っている様子だった。
「え〜とですね。……いや、ちょっと電車に乗り遅れてしまって、いや、でもお婆さんが困っていて、……まぁ、別に助けたりとかしてたわけじゃいんですけど、なんていうか、遅刻したっていうか、何処に行けばいいかわかんなくなってしまったというか、俺的にはきっと春が悪いんじゃないかと――」
 美樹が言い終える前に、目の前まで近づいてきていたその教師が怒鳴りつけてきた。
「まったく! 入学早々遅刻なんてだらしなすぎるぞ! とりあえず職員室に来なさい!」
 ジャージの下にはピカピカの革靴を履いている。きっと入学式を終えてから着替えたのだろう。
「……あ、はい」
 立ち上がると、ジャージ革靴教師は美樹の腕を強く掴んだ。
「早く行くぞ!」
 大きな声で怒鳴られた挙句、美樹は勢い良く引っ張られる。慌てない事を決意した美樹であったが、必然的に歩く足を速めることになってしまった。不本意な出来事だった。
「毎年必ず一人はいるんだ! お前みたいなだらしのない奴が!」
 鬼みたいな顔で怒鳴り散らしてくる。
 美樹にはなぜこの教師がこんなにも怒っているかまるで見当もつかず、不思議でしょうがなかったが、中学時代を思い返すと“そういえば教師というものは生徒を何かにつけて叱り付けるものだったな……”と納得のいく答えを見つけることが出来た。
「お前、名前は?」
 その声の響きには相変わらず険がある。
「あ、武藤美樹って言います……」
「なんか女みたいな名前だな、ともかくだ、入学早々サボりなんて許されないからな!」
美樹は女の子みたいな名前と言われるのが好きではなかった。子供の頃よく、お前の名前は女みたいだな、とからかわれていたのだ。そのことが原因で何度も喧嘩した記憶は今もしっかりと残っている。 初対面なのに大人ってのは失礼なもんだな、なんてことをこの教師に対し思ったが顔には出さず、「いやぁ」とか言っておいた。

“だって俺はもう中学生じゃないんだからね”
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