風に吹かれて消えちまう



第二章 恋するピエロ





 高校生活が始まって二週間が過ぎた。
 皆、ある程度学校にも慣れ、それなりの高校生活を送り始めている。もちろん美樹も例外ではない。例外は桜井美遊ただ一人だけだった。美樹は桜井美遊に会ったら思い出したということを伝えるつもりだったのだが、この二週間、彼女は一度として学校に来ることはなかった。正直、美樹はそのことが相当気になっていたが、クラスの皆、そして担任教師までもが、そのことを、桜井美遊のことを話題にすることはなかった。きっと、上履きのことで揉めたのが原因なんだろう、と美樹は考えていて、皆、小さなことで情けないなぁ、なんて思っていた。しかし、少しすると、皆がどうして桜井のことを話題にしないのか、その本当の理由がわかった。村上だった。村上が誰かと仲良くなるたび、話題作りのためか桜井美遊の例の噂を話していたのだ。
今も美樹の耳には後ろで、村上がクラスの女子に、桜井のことを話しているのが聞こえてきている。
「――なんかよ、虐待されてたらしいぜ? しかも、犯られてたらしいんだよ?」
「それ、ほんとなの?」
「あぁ、なんか俺の友達の友達が父親と腕組んで歩いてるの見たらしいよ」
「てことは、虐待とかじゃなくて望んでってことなんじゃない?」
「確かにそんな話も聞いたことあるな。実際のところどうなってんのかはわかんねぇけど――」
 美樹はこの下世話で胡散臭い噂にも、それを平気で話す村上にも、それを楽しげに聴くこの女子にもイライラしていた。ただ、話に割り込んでまでその噂を否定するのもどうかと思い、ただ不機嫌に前を向いていることしかできなかった。
 ……本当にくだらねぇ奴だ。
「武っ藤君! どうしたのそんな怖い顔してさ?」
 パッと目の前に人影が現れた。しのぶだった。
「別にそんな顔してないよ?」
 美樹はとっさに笑顔を作って返す。
「そう? それならいいけど、そんなことよりさ、最近倫子といつも一緒に帰ってるらしいじゃん?」
「え? まぁ、駅が一緒だからさ。それに二人とも部活やってないし」
しのぶは「へへへ」と意味深な笑顔で美樹の顔を覗き込んできた。
「なんだよ?」
「倫子かわいいっしょ?」
「はぁ?」
「照れない照れない。いや〜、本当私が部活入って良かったねぇ。私いたら二人っきりになるの難しいもんねぇ、へへ」
 その顔はもうすでに意味深どころか、表情だけで何を言わんとしているかがすぐに察する事が出来るような顔だった。
「ったく、何言ってんだよ、ばか」
「あ〜!!」
 しのぶがいきなり大きな声を出した。
「な、なんだよ?」
「ばかだってひど〜い。私すっごいショックで泣きそうだよ」
「嘘吐け!」
「え〜ん、え〜ん。倫子に武藤君がいじめるって相談しよっかなぁ?」
 泣きまねはすぐにニヤニヤとからかうような笑顔に変わる。
「や、やめろって!」
「焦ってるね〜? 倫子喜んじゃうぞ、へへ」
「お前ね……、こんなことして楽しいか?」
「うん、すっごい楽しい! 私こういうこと大好き! 例えばね、誰かと誰かが付き合うとするでしょ? そのときにどんな形であれ絡んでいたいんだ! そして“あの二人くっつけるのに本当に苦労したんだよねぇ”とか言ってたいの! あとからかったりしたいの」
「それ嫌われないか?」
「うん、たまに嫌われるけど、それでもそうしたいタイプなんだよね。あっ、でも武藤君は嫌わないでしょ?」
「さぁ?」
「あ、倫子に言いつけてやろ、武藤君って私のこと嫌いみたい……って!」
「……やめてくれる?」
「へへへ、やだ!」
「……お前さ――」
 美樹があきれた調子で言いかけると、ぎぃぃっとという嫌な音と共に担任教師が教室に入ってきた。
「あ、席座んなきゃ、んじゃ、武藤君、倫子を泣かせちゃダメよ? いい娘なんだからね!
へへっ」
「だから――」
 そう言いかけたが、しのぶは足早に自分の席へと歩いていってしまった。
「はぁ、まったく……」
美樹は小声でそう呟き、机にうなだれたが、実際倫子のことが気になりだしているのは事実だった。最近は毎日のように倫子とは一緒に帰っている。そのおかげか、もうすでに初日のような気まずさはなく、極自然に話せるようになった。しかも、好きな音楽やら、映画やら意外に趣味が合う。なにより、元々美樹は倫子のような女の子らしい女の子が好きだったのだ。そして、しのぶの話を完全に鵜呑みにしているわけではないが、倫子も少なからず自分のことを気に入ってくれるのではないか、とも感じていた。
 ふと、斜め前の倫子の席の方向を見ると、倫子もこっちを見ていた。倫子は一瞬目が合うとすぐに美樹から目を逸らし、黒板を見た。黒板にはまだ何も書かれていない。
 ――イケるかも! 小さくだが力強く右の拳に力を込めた。
しのぶは少し鬱陶しいところもあるが利用する価値は十二分にある。しかもそれを望んでいる。こうなったら、しのぶを通じてなんとなくこちらの気持ちを伝えてもらったり、倫子の気持ちを探ったりしてもらったりしようか。いや、誘い出してくれるだけで十分だ。
……そうだな、あの公園のボートがいい。もちろん漕ぎ手は俺だ。正面には倫子がいるんだ。当たり前だよ。良く晴れているさ。日に焼けないように倫子は鍔の大きな白い帽子を被っているんだ。それが風で飛びそうになるもんだから両手で押さえているんだ。ボートは当然揺れる乗り物だ。両手が塞がっていりゃバランス崩したときに前のめりに倒れそうになるさ。前のめりってことはそこにいるのはオールを力強く持つ俺だ。
『あ、危ない!』
 オールを放してがっしりと受け止めるんだ。でもそうするとさらにボートは揺れちまうさ。
『きゃっ!』
 この可愛らしい“きゃっ”と共に倫子は俺にしがみつくんだ。
『大丈夫?』
『うん、でも怖かった。あっ!』
 この“あっ!”は自分からしがみついてしまった恥ずかしさからくる“あっ!”だよ。倫子は俺からパッと離れようとするんだ。
 でも、放さないさ。放すもんか。放せるわけがない。
 見詰め合う二人。
 言うぞ? ここで言っちゃうぞ?
『好きだ』
『え?』
『お、俺と付き合ってくれ!』
 こくんと頷く倫子。
……ここでキスはまだ早いのか? いや、いけるだろ。いけるに決まってる。付き合っていいってことはキスしていいってことだ。いや、もしかしたらキスしたいってことだって有り得るんだ。てことでキスしちゃいます。武藤美樹、柿沢倫子にキスしちゃいます。いや、でも待てよ? キスした後にボートを漕いで岸まで戻るってのは間抜けな気がしないか? よし、場所を変えよう。
 なんて美樹が思っている間に一時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
俺は五十分間もこんなことを考えていたのか……。美樹は少しだけ落ち込んだ。
 
 三時間目、地理の授業の途中、美樹が倫子とのキスの場所を神社の境内に移したあたりで、教室の扉が勢い良く開かれた。一人の女生徒が教室内に入ってきた。黒く長い髪。白い肌。桜井美遊だった。桜井美遊には遅れてすいませんだとか、そういった言葉や態度は皆無だった。さも当然のように淡々と自分の席に着いた。地理の教師も、そのあまりの自然ぶりに注意をするタイミングを逃したのか、変な間をあけて授業を再開するだけだった。
上履きは履いていた。
 席に座った桜井美遊が美樹を見て唇の両端を持ち上げる。“笑っていない笑顔”やはり、純粋に笑っているような印象は受けない。それでも、とりあえず美樹もにこっと笑顔を返した。そして、小学校の頃のことを思い出したということを告げようとして、その取っ掛かりのため、小さな声で“おはよう”と言いかけたそのとき、美樹の心臓がズキリとした鋭い痛みを伴い一瞬止まった。その“笑っていない笑顔”の桜井美遊の表情が、当時の桜井美遊の顔とダブったのだ。……そして、重大なことを思い出した。
 それは、小学校五年生のとき、桜井美遊が美樹の団地から引っ越す何日か前、そのときが、美樹が“笑っていない笑顔”を見た初めての瞬間だった。
美樹の脳裏に蘇ってきた光景は昨日のことのように鮮明なものだった。
美樹は五時のチャイムで遊びに行っていた先から団地へと帰ってきた。階段にはいつものように桜井美遊が座っていた。しかし、その光景はいつもとは少しだけ様子が違っていた。桜井美遊の頬が腫れあがっていたのだ。しかも額には赤い血が滲んでいる。美樹は当然驚いて声をかけた。
「ど、どうしたの?」
「……別になんでもないよ」
 桜井美遊はそう言って“笑っていない笑顔”を美樹に向けた。その笑顔を見た美樹は一瞬言葉に詰まってしまう。その顔は子供の美樹にしたって奇妙で物悲しいものに写ったのだ。
「……なんでもないことないだろ? だって血が出てるし……」
 その時、一階の桜井美遊の家の扉が乱暴に開かれた。中から桜井美遊の父親、泰三が出てきた。扉は勢いよく開けられた反動から大きな音を立てて閉まる。桜井美遊の体がビクッ強張ったのを美樹は見逃さなかった。
「美遊! こんな家出て行くぞ! 一緒に来い!」
 美樹の目の前で桜井泰三は桜井美遊の髪の毛を引っ張って立たせた。
「――痛い!」
 桜井美遊の声はキンキンと耳に響いた。
「放せよ!」
 美樹は咄嗟に叫んだ。
「うるせえ! クソガキお前も殴るぞ!」
「放せって! 桜井、血が出てるんだ?」
 美樹は一切ひるまずに言い返す。次の瞬間、桜井泰三の拳が美樹の顔面を打ち抜いた。まさか本当に大人が子供を本気で殴るなんて思ってもいなかった美樹は声も出なくなるほど震撼した。そして、もう一発。今度は鼻っ柱。美樹は文字通り吹っ飛んで階段の壁にぶつかりその場に倒れこんだ。
「美樹君もういいから、早く逃げて!」
 桜井美遊が叫ぶ。
「うるせぇ! 黙ってろ!」
 パンッ、泰三は美遊の頬を平手ではたいた。
助けないと……、本当にそう思った。しかし、ドクンドクンと痛みが殴られた場所を波打っていて、それが恐怖と絡まり美樹の体を動かなくさせた。声すら出なかった。それでも美樹は目の前で女の子が殴られているのをどうにかしないといけない、と必死で立ち上がろうとした。桜井美遊の頬を叩かれる音がまた聞こえた。
「――叩くな!」
 勇気やらなにやらを振り絞って叫んだ。立ち上がった。桜井泰三の手が止まりギロリと美樹を睨みつけた。怒りか酒か、その両方か、ともかく桜井泰三の顔は真っ赤だった。
「なんだとこのクソガキ、もう一辺言ってみろ」
 桜井泰三がゆっくりと美樹に近づいてきた。……怖かった。今まで生きてきた中で一番怖かった。頭はそんな命令を出していないのに足がすくみ、後ずさってしまう。しかし、すぐに壁にぶつかってしまった。桜井泰三はすぐ目の前まで迫ってきている。三メートルはゆうに越してるくらい大きく見える。桜井泰三の影が小さな美樹の体を完全に黒く染めた。怖い、怖い、殴られる、怖い、やめて、やめて、怖い、恐ろしい、怖い、殴られる…………。
「美樹君もう帰って!」
 桜井美遊の声が大きな影越しに聞こえてきた。
「……私は大丈夫だから」
 次の声は随分とかすれた声だった。
 美樹はその言葉を聞くと階段を駆け上がってしまった。何も考えずに走った。そして、自分の家に入り玄関の鍵を閉めた。そして子供ながらに自分に言い訳をした。
“逃げたんじゃない。桜井が帰ってと言ったから帰っただけだ。……それだけだよ”
 何度も何度も言い訳した。震えながら鼻血を押さえ言い訳した。薄っすらと下から桜井美遊が頬をはたかれるような音が聞こえたような気がした。耳を塞いだ。音は消えなかった。怖くて、怖くて仕方なくて泣いてしまった。しばらくそうやって泣いていた。
 そんな記憶を思い出したのだった。
今、思い返すと、……いや、きっと当時もわかっていたはずだが、とりあえず思い返すと悲しいくらい逃げ出した自分がそこにいた。怖くて、痛くて、ビビッて、……そして桜井美遊を見捨てて逃げだした自分を見つけてしまった。その一連のことを思い出すと狂いそうなくらい体の中がざわめきだした。居心地が悪い心境に似ているが、それどころじゃない強さと激しさを持っているざわめきだった。そんな美樹を桜井美遊が不思議そうな顔で見てくる。美樹の様子がおかしかったことを感づいたのだろう。
「――いや、はは」
 視線に気づいた美樹は笑って取り繕った。
「ふふふ、どうかしたの?」
 美遊があの笑顔で聞いてくる。それがさらに胸をえぐった。
「い、いやさ、桜井、上履き買ったんだね?」
 美樹は桜井美遊のことを思い出したと言う代わりにこんなことを言った。その理由は明確にはわからなかったが、逃げ出した自分に気づいていると思われるのが嫌だったから、そんな後ろ向き極まりない理由だったかもしれない。
「うん、買ってもらったの。いいでしょ?」
「そっかそっか、それは良かったな」
 美樹は力なく言った。それで会話は終わった。
 授業は淡々と進む。美樹は暗い気持ちのまま全てから置き去りにされている。窓も扉も電球すらない真っ暗な密室に閉じ込められたような気分だった。そんな気分を押し殺すように、違うことで脳を使うようにと必死で考えた。
 いったいなんであんな鮮烈な過去を忘れていたのだろうか……。
美樹はあの一連のことを今の今まで忘れていた。
桜井美遊の存在を思い出したのもついこのあいだだ。一緒に忘れてしまっていたんだ。どうしてだろう。
“……俺はきっと忘れたかったのだろう”
美樹はそう思った。そして二つのことを同時に感じた。一つは、記憶を都合良く失くすことが出来るなんて子供ってのはすごいな、ということ。これは違う事で脳を使うようにしたために感じた事だった。そして、もう一つは、暗い密室のような心で感じた、汚い自分を無意識に思い出さないようにして生きてきた自分に対する嫌悪感だった。密室の心は自分に対する嫌悪感とそれに付随する罪悪感で隙間無く埋め尽くされた。もはやそこにいるのだけで酷い圧迫感を受けるほどだった。なにしろ美樹は自分のことを今の今まで“意外にいい奴”だなんて思っていたのだ。そんな自分が馬鹿みたいで泣きたくなっていた。
 
“思い出すことがないくらい忘れなきゃダメなの、そうじゃなきゃ変われないの”

入学式の日に桜井美遊が言ったそんな言葉が頭の中をうるさく駆け巡った。
……つまり思い出してしまった俺はあの時のままなのか?
美樹は頭を抑え蹲る。
……いや、変われているだろう。今ならあの状況で恐怖に打ち負けるはずがない。逃げ出すわけがない。
 しかし、それを示す具体的な場がない美樹にはそんな確信のない思いを情けなく廻らすことしかできなかった。

“……いや、今ならきっと桜井を助けているに決まっているさ”

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