風に吹かれて消えちまう



第二章 恋するピエロ





校内は想像以上に静まり返っていた。テスト前だということで、どの部活も活動を休んでいるのだろう、人っ子一人いない。美樹は大遅刻した初日のことを思い出しながら教室へと向かって歩いた。それにしても蒸し暑い。通りがかったエアコンの効いている職員室から漏れてくる冷えた空気が無性に羨ましかった。
教室の前に着き扉を開ける。静かな校内に嫌な音が響いた。誰もいないと思っていた教室には一つ人影があった。桜井美遊だった。自分の席に座ったままで真っ直ぐ美樹を見ている。
「こんにちは、美樹君」
 美遊はお得意の表情で話しかけてきた。
「お、おう。あ、俺なんか忘れ物しちゃってさ……、ほら宿題の、はは」
 美樹は早口気味にそう言った。あのことを思い出して以来どうも桜井美遊とうまく会話することが出来ずにいた。罪悪感と、自分に対しての嫌悪感が拭え切れないのだ。そして、償う勇気も生まれてこなかった。
「ふうん。そうなんだ。ふふ」
「桜井はいったいどうしたんだよ? こんな時間まで学校残ってさ……ってあれ? 今日学校来てたっけか?」
 後ろめたさからか言い方が変に明るくなってしまう自分に気付く。……情けない。
「私は学校にあまり来ないから今日呼び出されちゃったの。あの女の人の話すごく長くてさ。話はさっき終わったんだけど、ちょっと疲れたから座ってたの」
 あの女の人というのは担任のことだろうということはすぐに察することが出来た。
「そうなんだ」
 そう言って美樹は自分の机の引き出しを漁り、目当ての教科書を見つけバックに詰め込んだ。
「よし、んじゃ、俺はこれ見つかったから帰るよ」
「はい。さよなら」
 美樹は足早に立ち去ろうとしたが、桜井美遊から、そして過去から逃げているような気分になり立ち止まった。……逃げるのは嫌だな。だったら、思い出したことを伝えようか……、そう思ったがどうもそこまで言う勇気は沸き起こらないかった。自分を最低と思うことは出来ても、証拠を示した上で口に出すことはまだ美樹の年齢では難しい事かもしれない。しかし、今の心境がずっと続くと神経が参ってしまうのは確かだった。そしてあの罪悪感と嫌悪感だらけの密室にはもう閉じ込められたくはなかった。
……何か話してみるか。とりあえずは世間話でもいいだろう。何かの足がかりになるかもしれないしな。
「……なぁ、桜井、この前の話、覚えてるか?」
 美樹は振り返り言った。
「何の話?」
「あ、だから、思い出すことがないくらい忘れないと人は変われないって話だよ」
 何を話すか迷ったが、小学生時代のことが言えないのなら、やはりあのときの話のことくらいしか話題は思い浮かばなかった。
「ふふふ、私そんな話したっけ?」
「はぁ? したじゃん」
「ふ〜ん、そう、それで?」
「それでって……」
 美樹にしたら思い切って話しかけたというのに、桜井美遊の反応はそれに反して極小さなモノだった。思わず力が抜けてしまう。
「……まぁ、いいや。とりあえず聞いてくれな。俺思うんだけどさ、その逆なんじゃないかって。だってさ、人が変わるってのは何かがあって変わるわけだろ?」
 美樹の頭の中には桜井美遊を見捨てて逃げ去ったときの映像が浮かんできた。ズキリと具体的な痛みが胸に走る。
「まぁ、そうね、それで?」
 桜井美遊は“笑ってない笑顔”を浮かべる。美樹の話にはあまり興味がなさそうに見えた。少しだけ馬鹿にされているような気分にもなったが、美樹は話を続けた。無理に話を続ける理由は、美樹自身も気付いていないかもしれないが、あのことを思い出して自分は変われたんだ、きっと次は助けるに決まってるんだ、ということを自分自身で確認したかったから、ということと、過去の自分、あのときの自分と今の自分が違うということを桜井美遊に証明したかったからであろう。ただ、二つ目のそれは証明でなく、説明と自己弁護にしかなっていないということにはもちろん今の美樹には気づく余地すらなかった。傍目からみたらひどく滑稽なピエロみたいな美樹だった。
「だからさ、記憶があるから、嫌な記憶があるから変われるってこともあるんじゃないかな、ってことだよ」
 必死なほどピエロは滑稽に映るものだ。事実美樹はどこか間抜けに見えた。
「ふうん、そう」
 しかも、桜井美遊はこうもあっさりと返してくる。
「ふうん、そうって、もうちょっと食いついてくれよ! まぁ、俺話したいから続けるけどさ、“今度こそは”って気持ちは記憶があるからこそ生まれるもんだろ? んで、その今度こそをやりとげたら変わったってことの証明になるんじゃないかな?」
「ふふふ、美樹君、とっても素敵な意見ね。私感動したわ」
 言葉とは裏腹に全く変わらないトーンの声。
「……嘘臭いなぁ、桜井、お前絶対感動してないだろ? まぁ、でもそういうことなんじゃねぇかって思ったんだよ」
 美樹は少しだけすっきりしたような気になった。リアクションこそ薄かったものの桜井美遊と普通に話すことが出来たということが美樹をそうさせたのだろう。
「んじゃ、美樹君、過去のことを責めるのは良くないってよく言うでしょ? それってどういう意味か知ってる?」
 桜井美遊がいきなり話を変えてきた。この唐突さに“またか”とも思ったが、桜井美遊と普通に話せるようになることが気まずさや、“あのこと”に対する、たまに湧き起こる自己嫌悪の特効薬だと思い会話を続けようと決めた。
「どういう意味って?」
「だから、このよく聞くフレーズの意味よ」
「はぁ? だから、過去のことなんて今さら言ってもしょうがないってことだろ?」
「それには美樹君は賛成?」
「まぁ、賛成だな。だって実際過去のことなんて言ったってしょうがないだろ?」
「じゃあ、過去のことを今さら言ってもしょうがないなら、いったいどうするの?」
「ん? 許すんじゃん?」
 美樹はこの話が長くなりそうなのを察し、桜井美遊に向かい合うように誰かの机の上に腰を降ろした。
「許す? それっておかしくない? 過去のことは今さら言ってもしょうがないってことは、過去のことは変わらないってことだよね? つまり何の変化もないのに相手を許すってのはおかしいでしょう?」
「うん。まぁそうだけどさ……、でも相手に対して怒りやら何やらが消えたってことはそういうことなんじゃないの?」
「違うわ。それはきっと自分なりに納得するってことで、自分の中のことだけなのよ。やっぱり許すってこととは違うわ」
「ん〜、また難しいことを言うねぇ。でも、納得と許すは似てるんじゃない?」
「そう? んじゃさ、問題ね。誰かが罪を犯すとするでしょ。そうね、人殺し、しかも五十人、その人はとても反省しています。この人の罪はいつ許されますか?」
 唐突でなんの脈絡もないような問題だった。
「何その問題? 話が飛躍しすぎじゃない?」
 さすがにそう聞いてしまう。
「いいから答えて」
 しょうがないな……、そう思い、答えを考えた。
「ええ、う〜ん。やっぱ五十人も殺したら許されないんじゃないの?」
「過去なのに?」
「過去っつってもなぁ……、う〜ん」
 いくら過去でも許されないことはあるだろう……、だけど昔のことを言ってもどうしょうもないのは確かだし……。美樹は難しい問題に悩みこんでしまう。
「ふふふ、それじゃ、また問題ね。美樹君は何処からが過去になると思う?」
 またもや唐突に問題が出題された。
「どこからって、今現在の前は全部過去だろ?」
 すっきりしないままの頭で答えた。
「ふふふ、それなら、きっと誰が何をやっても裁かれたりするのはおかしいわよね? だって、一秒前はもう過去よ? 0,0000000001秒前ももう過去なの。つまり現在なんて一瞬で過去になっちゃうの。ううん、一瞬なんてものよりもっと速いね。現在なんてないくらいすべて過去になっちゃうよ?」
「……うん、でも」
 桜井美遊の論客に思わず言葉が詰まってしまう。現在なんてない……、そう言われれば確かにそうとも言えるだろうが、でも、この発言はどこか気に食わない。それがなぜかもわからない。そんな風に美樹が頭をぐるぐるさせていると、桜井美遊はさらに静かな物言いながら畳み掛けるように話してくる。
「だから、美樹君の言ったみたいに、今現在以外を全部過去として、昔のことを責めてもしょうがないとするとね、一秒前にやった殺人のことを責めてもしょうがないだろってことになるの、ふふふ。おかしいねぇ」
「いや、でもなんていうか、ほら、……なぁ?」
 美樹は具体的なことは何も言い返せない。
「ふふふ、んじゃ、ここでまたまた問題ね、今回はもっと難しいよ。美樹君にかわいい彼女が出来ました。でもね、彼女は元ソープ嬢で、店以外でも売春をしてたの。しかも、たいした理由もないの。人よりいい生活がしたくて、ただお金が欲しかっただけ。美樹君はそのことを知らなかったの。んでね、ある時美樹君はそれを知っちゃうの」
「別にそんなこといいんじゃん? 好きならさ」
 間髪いれず答えた。そんなこと関係ない。嘘じゃない。本当にそう思っている。
「ちょっと待って。問題はまだ続くの。しかもここからがこの問題のメインなの。美樹君はね、彼女が体を売っていたことが嫌で嫌でしょうがないの、だけど彼女は過去のことを今さら言わないでって言いました。さてどうする?」
「どうするったってなぁ、俺は別にホントに好きならやっぱり過去がなんでも構わないけど……」
「ふふふ。それじゃあ、彼女が元連続殺人鬼だったら? 元連続爆弾魔だったら? 変わらず愛せるの?」
「そりゃ、ちょっとさすがになぁ……」
「ほら、やっぱり」
 桜井美遊は机に肘をつき、手の甲に自分の顎をひょいと乗せた。相変わらずの“笑っていない笑顔”。
「やっぱりってことないだろ? 殺人鬼とか爆弾魔とかはちょっと違うだろ?」
「でも、過去だよ? 過去なら関係ないんでしょ?」
「いや、でも……」
 美樹はわかりやすく言葉に詰まる。
「ふふふ、そうなのよ。つまりね、その娘にとっては過去のことだから関係ないっていうのは、当然なの。でもね、美樹君が嫌なのは今なの。この二人の論点は時間軸が違うのよ。だからもう駄目なの。同じ時には戻れないわ。ふふふ、悲しいでしょ? 自分は今嫌なのに、周りには、それは過去のことだから、言ってもしょうがないって言われてしまうの。今相手の過去が嫌な気持ちがあるのに、それは過去のことだって言われてしまうの、おかしいでしょ?」
「……本当だね、確かにおかしいかもな、でもとりあえず俺を例題の登場人物にするのやめてくれない? なんか、俺ダメな奴みたいじゃん?」
「ふふふ、そもそも、過去のことは今さら言ってもしょうがないって言葉自体おかしいと思わない?」
 先ほどの美樹の発言の後半部分には全く触れずに言葉を返された。美樹もしょうがないなこいつは、と思いながら、そのまま会話の流れに乗っていった。
「いや、なんだか、この話をする前はそんなこと思ってなかったけど今はなんかそんな気がするかもな、でもさ、だったらどうすりゃいいわけよ?」
「どうにもならないんじゃない?」
「おいっ、それじゃ意味ないだろ?」
「ふふふ、そう、正解よ。初めっから意味なんかないの。それじゃ私もう帰るね」
 桜井美遊がすっと立ち上がりドアのほうにスタスタと歩いていった。そして、ドアの手前で美樹のほうに振り返った。
「美樹君、今日はとっても楽しかったよ」
 そう告げるときびすを返し教室の外へと出て行った。
 相変わらず、その独特の間にはついて行けず、さっさと帰っていった桜井美遊を無言で見送るしか出来なかった。しかし美樹の気分は悪くはなかった。むしろ気分が良いといっても過言ではない。やっと桜井美遊と……普通に? ではないかもしれないが、面と向かって話すことができた。その事実がどれだけ心の重荷を取り払ってくれたことか。
“このまま行けばいつかは、いや、近いうちにあのことをしっかり謝れるときがくるかもしれない”
 そう思えただけで、例の密室に大きな出窓が付いたような気分になった。しかも、倫子との距離も少しだけ縮まったような気もしていた。八割方両思いだと思ってもいいだろう。その出窓にかわいい熊のぬいぐるみを飾りたい、なんて思った。
全てが自分の思い通りに進んでいる、そんな感覚を人生で初めて味わった。
まずは桜井にしっかり謝って、許してもらって、そして、倫子に告白して、それが成功して、付き合って、神社に行って、キスして、少し経ったら部屋に呼んで、キスして、それ以上もしちゃったりして………。
美樹は教室の窓から校庭を見渡した。なんてことない、いつもの風景だが心なしか優しい印象を受けた。
美樹はスキップでもしたくなるような気持ちを抑えながら家路へと着いた。
こんなときは良いことが立て続けに起こるらしく、また一つ美樹を喜ばせる出来事が起きた。地元の駅に着いた美樹は入学式の日に盗まれたはずの自転車を見つけたのだ。鍵だって付いている。パッと見たところ傷一つない。
「よっしゃー!」
人目も気にせず美樹は側で大きなガッツポーズを取った。

“チャン、礼はいらないさ。メイファが元気になりゃ俺だって嬉しいんだからね!”

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