風に吹かれて消えちまう



第三章 マッチ売りの少女は地獄に落ちた




 期末テストも終わり、夏休みがもう、すぐそこまで来ていた。授業はとっくに終わっていて、教室は西日でオレンジ色に染まり、窓や冊子の影が長く伸び教室に良く出来た影絵を描いている。そんな中で美樹は頭を抱え目の前の数学のプリントに取り組んでいた。その横で桜井美遊も同じプリントに目を通している。教室内は美樹と桜井美遊と影しか存在していなかった。つまり二人きりだ。
 ……だめだ。わけわかんねぇ。YとかXとかに置き換えると尚更わけわかんねぇ。だってほらなんでも置き換えりゃ済むってことはないだろ? 例えば恋愛問題なんかを何かに例えたところでそれが解決するはずもないじゃないか! ……はぁ、わけわかんねぇ。
 期末テストの補講だった。美樹は点数がクラス一悪く、美遊は一日テストを受けなかったため残されてプリントの問題をやらされているのだ。もちろん初めは他にも数人いた。しかし、皆、一時間前にはこの課題を終わらせ笑顔で帰っていった。数学の教師もいたのだが美樹の進み具合の遅さに呆れ果てついさっき教室を出て行ってしまった。
……一時間真剣に考えたんだ。答えはわからなくても別にいいじゃないか。結果が全てではないだろ?
たった今美樹はこの補修を投げだした。問題を読むことをやめ、ペンをクルクルと回しだす。人差し指から小指へとペンはクルクルと回りながら移動していった。
へへ、上手いもんだろ? こういうのは得意なんだぜ? すぐに“だからなんだってんだ”と内なる声が聞こえてきて軽く落ち込んだ。
「はぁ〜わけわかんねぇ……」
美樹がため息を吐き、顔を机に突っ伏すと桜井美遊が声を掛けてきた。
「ねぇ、美樹君、知ってる?」
「ん? 何を?」
 顔を上げ、ペンを放り投げるように机に置いてから、美樹は桜井美遊のほうに顔を向けた。桜井美遊は右手に顔を乗せて美樹を真っ直ぐに見つめている。忘れ物を取りに戻ったとき以来美樹は桜井美遊とある程度普通には話せるようになっていた。授業中など、桜井美遊が来ているときはわけわかんない授業なんてそっちのけで桜井美遊との言葉遊びのような会話を楽しんでいるくらいだ。やはり桜井美遊の話は突拍子もないものばかりだった。
例えば、こんな会話があった。
『マッチ売りの少女はあれからどうなったか知ってる?』
『先も何も死んじゃうんじゃなかったか?』
『ふふふ、その後よ』
『死んだあと?』
『そうよ。あのね、マッチ売りの少女はね、……地獄に落ちたの』
『は?』
『だって明るい家庭を窓から覗き見て、自分は寒いところでマッチを擦って少しだけ身体を暖めながら死んだお母さんの幻を見ているなんて地獄に落ちるしか他に道はないでしょ?』
『それはちょっと酷くないか? さすがにかわいそうだよ』
『ふふふ、ちっともかわいそうじゃないわ。だって自分ではなんの努力もしてないでしょ? ガタガタ震えてマッチを擦ったところで何がどうなるっていうの? 何も解決しないわ。そういうのはかわいそうって言わないの。当然マッチ売りの少女は天国でお母さんに会えるわけがないわ』
『だったらマッチ売りの少女はどうすりゃよかったんだよ?』
『わからないの? 美樹君はちょっと馬鹿ね。ふふふ』
『うるさいな。早く言えって』
『簡単な話よ。覗き見た明るい家庭の子供をズタズタに引き裂いて全てを奪ってやればよかったのよ。お父さんもお母さんも暖かい暖炉も全てね』
『酷い話だなぁ』
『酷くないわ。それくらいしないと天国を目指す資格はないってだけのことよ』
『そうしたらマッチ売りの少女は天国に行けたっていうのか?』
『ふふふ、行けないわ。だってそれじゃ人殺しだからね。つまりね、元々行けるはずがなかったの。そう、マッチ売りの少女は母親を失った時点で天国への切符を落っことしてしまったの』
『そんなのでダメなら誰も天国になんて行けるわけがないだろ?』
『そうかもね。みんな地獄に落ちるのかもね、ふふふ。あっ、でももしかしたら美樹君は行けるかもしれないわ。だって真っ直ぐここまで来れたんですもの』
 といった会話が。
 他にも“豹柄のカラス”や“世界の穴”だのそんな美樹にとってはイマイチ理解できない話をたくさんしていた。その全てにおいて桜井美遊の言わんとすることが理解できはしなかったが、それでもなにやら知的な言葉遊びのようで授業なんかよりは楽しかった。……しかし、未だにあのこと、子供のころのことを思い出したということは言えていなかった。このことに関しては「このまま仲良くしてたら、いつか言えるだろう」という意見と「もう普通に話せるのだから言う必要もないか」という意見が自分の中で対立していた。導き出される答えはいつも違っていた。
 桜井美遊の話は続いていた。
「これは内緒の話だよ? あのね、言葉ってね、風に吹かれて消えちゃうの。飛んでって消えちゃうのよ」
今迄で一番唐突で意味不明の言葉だった。
「はぁ? なんの話だよ?」
 美樹は長い間机に向かって固まっていた体をグッと伸ばした。
「あ、美樹君、今、言葉なんて別に飛んでっちゃってもいいって思ったでしょう?」
「え、別に思ってないけど……?」
「うん。確かに美樹君の言うとおり、言葉なんてくだらないからね、美樹君がそう思うのもわかるわ、うん、よくわかるわ」
 桜井美遊は一人で、うんうんと頷いた。
「あのさ、だから別にそんなこと思ってないって――」
 美樹を相手にもしない桜井美遊はその言葉を遮るように続ける。
「――うん、言葉がいったい何だっていうの! って思うことよくあるもんね。私だってそう思うこともあるもの。でもね、思いや願いを乗せた大切な言葉ってあるでしょ? そういうのもね、風に吹かれて消えちゃうの。そうするとね、その思いや願いも風に吹かれて言葉と一緒に消えちゃうの。しかもね、その思いや願いの強さとか、切実さとか、重要性とか、そんなものなんて丸っきり関係なく消えちゃうの。それってとっても悲しいと思わない? 残念でならなくない?」
 そう言うと桜井美遊は美樹の目を真っ直ぐ見つめてきた。相変わらずだなと感じながらも、桜井美遊のこんな発言にある種の心地よさみたいなものを感じ始めているのも事実だった。いつもならこの手の発言にはさらに食いついたりもするのだが今日は目の前のプリントのせいでそんな気にもならず軽く聞き流すことにした。しかし、桜井美遊の目はいつにも増して美樹を真っ直ぐ見つめていた。二人きりの教室でこんなにも見つめられると美樹は少し困ってしまい、
「……う〜んと、なんか、よくわかんねぇけど、まぁ、そうかもな? ていうか、この問題もさっぱりわかんねぇや」
 なんてプリントをヒラヒラと指先で持ち上げ、おどけたような顔をして「ははは」と軽く笑った。
 それを見て美遊も「ふふふ」小さく笑った。夕日に照らされて出来た長く伸びた二人の影も小さく笑っていた。
 一頻り笑い終えた美樹がプリントに視線を戻した。
「……はぁ〜」
それは“まぁいっか”ではないため息だった。先ほど“結果が全てではない”なんて考えていたが、実際問題、現時点ではこのプリントを終わらせるという結果を出さなければ帰ることはできないのだ。しかも、本当だったら授業が終わってから倫子やしのぶたちとプールに出かける予定もあった。授業が終わったときに“補修について”と黒板に書かれ、その事実を知ったときには髪の毛が全て抜け落ちてしまうかと思うほどショックを受けた。
はぁ〜、今頃、みんな、楽しく遊んでいるんだろうなぁ。浮き輪で流れるプールをくるくると回っていたらどうしよう。
思うとたまらなく嫌になった。
しかも、村上も一緒なのだ。倫子の水着姿を村上に自分よりも先に見られると思うともう気分は最低の最悪だ。倫子には“村上と仲良くするよう努力する”なんて言ってみたが、努力どうこうで村上を好きになれるはずもなく相変わらず村上は大嫌いだった。実際のところ美樹は努力なんてしちゃいなかったが。ともかく美樹は倫子がビキニでないことを神に祈った。
倫子のおへそや、お尻の辺りのお肉を見られませんように!
手を組み神に祈るしぐさで目をギュッと閉じる。するとなんだか急に馬鹿らしくなり、またもやため息が出た。
「はぁ〜あ……、それにしてもこのプリントこそ風に吹かれて消えちまえばいいのにな?」
 だらしなく言った。
「そう? 私もう終わったよ」
 その言葉で美樹はパッと目を輝かせた。
「マジで? 見せてくんない? 答えとかちょくちょく変えるからさ。お願い! 今ちょうど先生いないし! お願いします! 桜井様!」
 両手を合わせて頼んだ。
「え?」
 桜井美遊がなぜか困ったような顔をした。
「……嫌だ?」
「う、ううん。別にいいんだけど……」
 桜井美遊はなぜか困惑した表情だ。いつもならこんな困惑した表情は美樹のものであるはずなのに。……今まで誰にもこんな風に頼られたことがないのかもしれない、美樹はその表情からそんなことを読み取った。最近話せるようになって忘れていたが、そういえば桜井美遊は中学時代話す相手もいなかったんだ。
かわいそうだな……、根も葉もない噂なのに……。
 美樹が真剣にそう感じていると目の前に答えの書いてあるプリントがすっと置かれた。
「あ、サンキュ!!」
 美樹はそのプリントを受け取ると、とりあえず気持ちを入れ替え必死にそれを写し始めた。
そんなせっせとプリントを移している美樹を桜井美遊が小さな小さな笑顔を浮かべて見ていた。美樹は見ていなかったので気付く事は出来なかったが、その表情は砂粒よりも小さかったが“笑っている笑顔”だった。
一問目すら解けていなかった美樹は一心不乱に書き写している。そのとき唐突に教室のドアがガラガラギィギィと音を立て開かれた。
――まずい、先生か?
しかし、開かれたドアから入ってきたのはクラスの奴ら数人だった。その中には倫子やしのぶ、そして村上もいた。今日一緒にプールに行こうとしていた面子だ。
「え? みんなプール行ったんじゃなかったの?」
 へへへっとしのぶが笑う。しかし、一番初めに口を開いたのは、
「武藤、居残りご苦労様ぁ、調子はどうよ! 愛しの桜井と楽しくやってるかぁ?」
 村上だった。しかも村上は倫子の前だからってわざとそんなことを言っているようだ。
……本当に嫌な奴だな。
村上を無視しようとすると、倫子が目に映った。村上の発言を聞いた倫子の表情が曇るのを見逃さなかった。その美樹の視線に気づいた倫子がとっさに明るい表情を作り言った。
「あ、美樹君を待ってたんだよ。一緒にプール行きたくてさ!」
「マ、マジで?」
 美樹は嬉しくなり声のトーンが一オクターブ上がる。
「倫子がどうしても美樹君待ちたいって聞かなくてさ」
 しのぶが困ったという表情としぐさで茶化してくる。すると、村上がムッとして、
「あ、ほら、でも、不思議なもんだよな、武藤ってこんなのいいんだってさ?」
 桜井美遊を指差し、わざとらしく倫子にそう話しかけた。美樹は会うたびにこいつが嫌いになる。やはり努力してもこいつだけは無理だな……。
「違うもんね? 美樹君は倫子だよね?」
 しのぶがニコニコしながら言った。美樹は思わず照れてしまう。
「いや、それより村上さ、こんなのっての言い方おかしいだろ?」
 その発言は桜井美遊を擁護するというよりも照れ隠しだったのかもしれない。
「ほらね! 聞いた倫ちゃん!」
 揚げ足を取るように言う。
「…そうなんだ」
 倫子が小さい声で言った。
「だから、そんなんじゃねぇって前も言ったろ?」
 倫子にも聞こえるように村上に言った。
「いやいや、武藤ちゃん照れなくてもいいから! 最近授業中とかもよく二人で話してるじゃん?」
「別に話したって良いだろ?」
「もちろん、いっぱい話せばいいよ!」
 村上は片方の口を吊り上げた汚い笑顔を浮かべた。
「お前な!」
 美樹は思わず立ち上がった。
「何怒ってんだよ? やっぱ桜井とは嫌々仲良くしてたわけか? そりゃそうだよな? 気持ちわりーもんな?」
「マジいい加減にしろよ?」
 美樹は本気で腹が立った。村上に掴みかかろうとゆっくり歩くと、横からこそっと倫子の声が聞こえた。
“武藤君やっぱ桜井さんが好きなのかな?”
 しのぶにそう聞いていた。
口が滑ってしまった。そんな倫子の声が聞こえてきたため美樹はつい、口が滑ってしまった。ただそれだけだった。
「――だから、俺は桜井なんか全く好きじゃねぇよ! 好きなわけないだろ!!」
 そう怒鳴ってしまったのだ。やばい! そう思ったのも束の間、ガシャンと椅子が倒れた。桜井美遊が椅子を倒して立ち上がり教室から走って出て行ったのだ。
「ちょっと、待てって桜井!! 今のは違うんだって!」
 美樹がそう呼び止めたがすでに桜井美遊は教室から出て行っていたため、美樹の桜井美遊を大声で呼ぶ声だけが教室に最悪なタイミングで残ってしまった。遅れて桜井美遊の机が音を立てて倒れる。ガタン。とっさに倫子を見た。悲しそうな顔をしている。
「あ、いや、だからさ……」
 必死に弁解しようとしたが、いったい何を弁解すればいいかわからなかったし、それに桜井美遊をほっとくわけにもいかないと思い、泣く泣く倫子から視線をはずし、桜井美遊を追って教室のドアのほうへ駆け出した。
「美樹君!」
 しのぶの呼ぶ声で立ち止まった。
「美樹君、倫子になんか言ってあげなよ? 私も桜井さんに謝りに行くべきだとは思うけど倫子に一言言ってあげなきゃ」
 ……はぁ? なんて言えばいいんだよ。
 倫子を見る。倫子は目が合うとすぐに俯いた。
……こんな状況で告白なんて出来るわけないだろ?
村上の口車にまんまと乗ってしまったことを心から悔やんだ。そして美樹は結局何も言わずに、そして一度も振り返らずに教室を出て桜井美遊を追っていった。

“……最悪だ。ちくしょう、どうして俺がこんな目に……”

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