風に吹かれて消えちまう



第三章 マッチ売りの少女は地獄に落ちた




 階段を駆け下り、下駄箱の脇から校門を見るとその影に消える瞬間の桜井美遊をなんとか確認する事が出来た。右に曲がった。美樹は急いで靴に履き替え、倫子のことを気にしつつもその後を走って追った。
 しばらく走ると、さすがに男の美樹のほうが足が速いため、桜井美遊の走る背中が近づいてくる。そのまま走って追った。背中との距離は狭まる。
 あと三十メートルという所まで近づいた。そのとき、疲れたのか桜井美遊が走るのを止め歩き出した。ふらふらとその足取りは頼りない。きっと美樹が追ってきているなんて気付いていないのだろう。
 追いつくチャンスだ。
しかし、桜井美遊が速度を緩めるとなぜか美樹も足を止めゆっくりとその後をつけてしまう。美樹はそのまましばらくその後をゆっくりとつけていた。その距離は十メートルほどで常に一定な間隔だった。やはり桜井美遊は美樹が追ってきていることには気付いていないようだ。
そのまま気付かれないように歩いた。
こんな風に女の子の後を付けているとまるでストーカーにでもなったかのような気がしてくる。しかも、別にこんな風に音を消して後をつける必要はないのだ。ただ後ろから肩を叩いて呼び止め、一言「さっきはごめん」と言えばいいだけ、それだけのことなのだ。しかしながら、さっきのことの手前、美樹には勇気が出なかった。うまい言葉が見つからなかった。さっきのことを謝ることのネックがさっきのことだなんて当たり前のようでいて全く持って納得がいかない。だが、事実声をかけることが出来ない自分がいるのだ。
気付くと美樹は桜井美遊の自宅の前らしきところまで来てしまっていた。そこは、トタン屋根の小さなみすぼらしい家だった。たいした風もないのにガタガタと全体が揺れている。あからさま過ぎるほどボロボロの家だった。そして、どこもかしこも薄汚れていた。まるで廃墟だ。
 そんなボロボロのみすぼらしい家を見ると美樹はなぜか心苦しくなった。子供の時の記憶が蘇り、ここまで酷い家に住んでいるのは、あの時守ってやれなかった自分のせいかもしれないなどと、見当違いな考えをしてしまう。過去の罪悪感と先ほどの罪悪感が入り混じり、美樹は相当弱気になっている。空気にすら押し潰されてしまいそうだ。
 桜井美遊がその家の扉を開けた。今しかチャンスはない、家に入られたらどうしようも出来なくなる。きっと尋ねて行くまでの勇気は持ち合わせていない。そう思ったが自分でも驚くほど足が竦んでしまい動けなかった。情けなすぎる。ダサすぎる。瞬時には自分を奮い立たせるような言葉は浮かばなかった。ただ、ひたすら自分を罵る事しか出来なかった。結局、そんな美樹には桜井美遊が家の中に入っていく後姿を見送ることしか道はなかった。
 ……桜井の後姿を見送るのはもう何度目だろう。俺はなんて情けないんだ……、さっきだって倫子の前だから、倫子に勘違いして欲しくなかったから、ただそれだけの理由で桜井を傷つけた。もしかしたら傷ついてないかもしれないが、だとしても謝らなければいけない。――いや、傷ついたに決まっている。あんなに酷いこと言ってしまったんだ。周りからは浮いていようが、過去に何があろうが、今は頻繁に会話する友達なのに。
心で思っていたことを口に出したわけじゃない。つい、口が滑ってしまっただけだ。だからそのことを正直に謝ろうと思って追って来たんだ。酷い事を言ってしまって済まないって言うために。……それなのに、ただそれだけなのに俺は何がいったい怖いというのだろう…。どうして足が竦んでしまうんだろう……。

“……あの時と同じじゃないか、俺はまた、怖くて逃げていつしか忘れてしまうつもりなのか?”

美樹はその場で肩を落としうなだれた。

“そんなのは嫌だ。変われているんだ。俺は変われているはずなんだ”
 
 頭を思いっきり振ってみた。弱気な、情けない自分が振り切りたくてぶんぶんと力かませに頭を振った。
 そうしていると、ふと桜井美遊の入ったその家の窓に目が飛び込んできた。少し目を凝らすだけで中の光景は確認できた。カーテンは開いていた。散らかった居間らしき場所に入りカバンを投げるように置く桜井美遊が見えた。
「あ、さく――」
 咄嗟に手を振り声を掛けようと思ったがその言葉は飲み込んでしまった。それは後ろから見覚えのある男が歩いてきたから、その男が幼いころ殴られた桜井美遊の父親、桜井泰三だったから。
あのときの一連の全てが走馬灯のように駆け巡った。口の中に血の味がこみ上げてくるような気がした。身体も、思考も何もかもが恐怖で固まった。どうしても泰三から目を離せずにいた。
次の光景に目を疑った。
なんと後ろから実の娘に抱きついたのだ。その抱きつき方がなんというか、……有体にいうなら、いやらしい、そんな風に映った。桜井美遊は桜井泰三の腕に抵抗するでもなくぼーっと立ち尽くしているだけだ。桜井美遊の目が遠くを見ている。読み取れる感情はなかった。いや、その虚ろな目には感情自体がないとさえ感じた。
村上の言葉が頭をよぎる。
“あいつ、虐待されてるらしいんだよ、犯られたりもしてるらしいぜ?”
 全身にざわざわと鳥肌が立った。昼食べた弁当が逆流するかと思った。目を背けようとか、見てはいけないとか、そんな考えが頭を過ぎることもなく、相変わらず、その光景から目は離せなかった。そしてその光景は美樹の目にはいやらしいだけではなく、汚らしくも映っていた。
 父親の手が桜井美遊の胸を弄る。
 美樹はまたもや吐き気を催してしまう。しかし、視線はその光景から離れない。ぼーっと視線を泳がせていた桜井美遊と窓越しに目が合ってしまった。
 美樹の体が情けなくビクッと震えた。
その瞬間、桜井美遊が父親を強引に振り解き、乱暴に扉を開けその家から出てきた。
美樹の目の前で桜井美遊が足を止めた。靴すら履いていない。ぶつかるかと思うほどの距離で目が合った。美樹は本能的に目を逸らしてしまう。全身に“見てはいけない”なんて最低な信号が走ったのだ。そんな美樹の横を桜井美遊が何も言わずに走り抜けた。
 美樹は体を硬くして立ち尽くしている。タッタッタと駆け足の足音が頭の後ろで遠ざかって行くのが聞こえる。
 ……声をかけることは出来なかった。
“それじゃ、望んでってことなんじゃない?”
 いつか聞こえた言葉が蘇ってきた。
……………違う。あの目。……あの虚ろな目、明らかに違う。望んでなんかじゃない。
小学校の社会の教科書に載っていた一枚の写真を思い出した。その写真は飢餓に苦しむ貧しい国の子供ものだ。餓死寸前のその子供の顔にはハエがたかっていた。全てを諦めてしまったような、求めること自体を知らないような、そんな目だった。
そうだ、あの目は全てを諦めてしまった目だ。求めることを知らない目だ。……桜井は間違いなく被害者だ。
美樹が振り返ると桜井美遊の姿は足音が聞こえないほど小さくなっていた。頭の中に自分の声が響いた。その声はこう問いかけてきた。
“お前はいった何をしにここに来たんだ?” 
……謝りに来たんだ。
自分の声はさらに美樹に詰め寄ってくる。
“それじゃどうして声を掛けない?”
 ………それは。
“それは?”
 …それは……なんだか怖くてさ、情けないのはわかってるけどそう感じてしまったんだよ。
“それでどうする?”
 どうするったって。
“何もしないのか?”
 ……だって何が出来る? あの腐ったような噂が本当だったかもしれないんだ。俺に何が出来る?
“それじゃまた逃げるのか?”
 ……………。
“また繰り返すのか?”
 ……だけど状況がいまいち呑み込めてないし。今声かけても余計に傷口を広げてしまうかもしれないだろ?
“やっぱりあの時からお前は変わってないのか?”
 あざ笑うかのような声が頭に響く。
“そんなことない!!”
 咄嗟に言い返す。腹が立って仕方がないんだ。
“じゃあ、どうする?”
 …………………。
 葛藤している間にも桜井美遊の後姿はどんどん小さくなる。
「……うるせえよ。決まってるだろ? だって俺は変われているんだ。だから、今度は……、今度こそ助けるんだ」
 小さく呟いた。桜井美遊の小さくなる後姿をしっかりと見つめた。そして、美樹は地面を力強く蹴り桜井美遊を走って追っていった。入学式の日以上に走る速度は上がる。体がぶっ壊れてしまうほどのスピードで走った。頭の中で声が聞こえてくる。
“追いかけてどうするんだ? 何も出来ないんじゃなかったのか?”
「………だからうるせぇんだよ!! そんなこと追いついてから決めりゃいいだろう!!」
 美樹は限界からさらに走る速度を上げた。

“がたがたうるせぇんだよ! 『今度こそ』ってのはいつだって今のことなんだ!!”


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