風に吹かれて消えちまう



第三章 マッチ売りの少女は地獄に落ちた




どのくらい走っただろうか。美樹は桜井美遊に追いつきその肩を掴んだ。しかし、止まることなく走る桜井美遊にその手をすぐに振りほどかれた。
「ちょっと待てって!」
 すぐに、再度掴もうとするがその手は空を掴む。はずみでバランスを崩した美樹は派手にすっ転んた。
「――いてっ」
 すぐさま顔を上げるが桜井美遊の背中は遠ざかっていく。
「――桜井! 頼む! 待ってくれ!」
 桜井美遊は振り返りもしない。
 ……謝るんだ。
……助けるんだ。
……償うんだ。
またも背中は小さくなっていく。
……ふざけやがって、今度こそ助けさせろ!
 コンクリートの地面に拳を打ちつけ立ち上がり走り出した。使命感とでもいうようなものが美樹の足を止める事を許さなかった。絡みつく罪悪感は足を止める事を許すはずがなかった。
そんな追いかけっこは暫く続いた。
ようやく、美樹はしっかりと桜井美遊の右腕を掴むことが出来た。振りほどかれる心配がないくらい強く掴んだ。そこは終わりかけの夕日が照らす川岸の草むらだった。
「……待てって、はぁはぁ」
強く腕を掴まれて走る事を諦めたのか、桜井美遊は息を切らすだけでそのほかの一切の動きをやめている。美樹は 桜井美遊の腕を掴んでいない左手を自分の膝に乗せ、次の言葉を発するため、必死に息を抑えようと試みた。それでもなかなか息は整ってくれない。
ふと辺りを見渡した。一心不乱に走っていた美樹は、そこが川原の草むらだということにやっと気付いた。すぐ脇には乞食が住むような青色のビニールシートのテントがある。
……? なんだここは?
 そうやって周囲に意識を向けているうちにようやく息は整っていった。しかし、桜井美遊の息はまだ整っていないようで、掴んでいる腕からは震える鼓動がいまだ伝わってきていた。その振るえが治まるまで待とう、そう決めた。
 静かな場所だった。水の流れる音と風の鳴る音しか聞こえない。日中の太陽の光を受けた草むらは夏特有のむせ返すような草の匂いがする。桜井美遊の震えは一向に止まらない。そのうちに美樹は気付いた。伝わってくる震えが息切れや、鼓動とは違ったものだということを。それは地底奥深くのマグマの活動のようなワナワナとした震えだった。
「……さ、桜井?」
 桜井美遊の後姿に問いかける。
「……なによ?」
 返ってきた声は低く小さな声だった。やはり息切れなど治まっていたようだ。
「……大丈夫か?」
「何が?」
「いや、だから、ほら……」
 言葉に詰まる。脳裏にはつい先ほど目の当たりにしたあの吐き気を催すような光景が蘇っている。……いったいどう言えばいいんだろう。
「……なに“大丈夫?”なんて優しいこと言ってるの? 美樹君だって結局同じでしょ? 
他の人たちと何一つ変わらないじゃないの。汚らしい私から目を逸らすんだから」
 振り返らずに言った。声は低く小さい。
「……そうだね。同じかもな」
「…同じよ」
 二人とも黙り込んだ。“今度こそ”沈黙の中で美樹は強くそう思った。
「さっきは悪かった。勢いで酷いこと言っちまったよ」
「別に酷い事なんて言ってないでしょ? たいした言葉じゃないでしょ? 好きになるわけないっていうのは酷い言葉? 違うわ。そもそも私がそんな言葉に傷つくわけないじゃない」
「でも、やっぱ、あの状況であの言葉はないよ。悪かった」
「謝りたいの? それとも許されたいの? まぁどっちでもいいわ。許してあげる。だからもうどっかに行っていいわよ」
 声は平坦なものだったが、桜井美遊の震えは治まっていなかった。手を放すことなんて出来なかった。しかし、次の言葉は見つからなかった。
「美樹君、もう私とお話するの辞めましょ。そのほうが美樹君のためよ」
「なんでだよ?」
「そんなこと美樹君が一番わかってるんじゃないの?」
「……わかんねぇよ」
 本当は桜井美遊が何を言いたいのかはわかっていた。
「嘘吐きね」
「嘘じゃないよ。友達のことだろ? だったら桜井もみんなと仲良くすればいいじゃないか」
「馬鹿言わないで。私にそんなこと出来るわけないでしょ。だってマッチ売りの少女に友達がいたらお話が成立しないわ」
「……間に合わないかな?」
「何が?」
「今からじゃ間に合わないか? 何か辛い事があるんだろ? 救ってやることは出来ないか? 俺に何か力になれることはないか?」
 桜井美遊の震えが一層激しくなった。そして、一拍置いて大きな息をふっと吐くのが後ろからでもわかった。すると震えがピタッと止まった。
「そう、力になってくれんだ?」
 そこで桜井美遊は美樹のほうに振り向いた。
「それじゃ、これから話す私の話をゆっくり聞いてくれる? ふふふ。最後まで聞かなきゃあダメよ?」
 その表情はいつもの“笑っていない笑顔”だった。
「どうなの? 最後まで聞いてくれるの?」
「ああ、それで力になれるなら」
「ふふふ、んじゃ、この中に入ろ?」
 指差した先は青いビニールシートだった。
「この中? ここはいったいなんなの?」
「ふふふ、いいから」
そう言い残し桜井美遊は美樹の手を左手で冷たく払いのけ一人ビニールシートの中に入っていった。美樹は一瞬戸惑ったが、このまま立っていてもしょうがないので、その後について中に入っていった。
 ビニールシート内には布団が一組あってそれ以外には何もなかった。そのためひたすら青い印象を受ける。布団の上に座っている桜井美遊もどこか青く見えた。いったいここはなんなのだろうか……。当然美樹には知る由もない。
「根も葉もない噂が立ってるでしょ? 美樹君も聞いた? 私がお父さんに犯されてるって噂」
 話は刺激的な言葉で唐突に始まった。
「ああ、聞いたよ」
美樹はその正面の地べたに座った。
「あの噂も中学卒業したら消えると思ってたんだけどねぇ」
 村上が言っているんだ、そう言おうと一瞬よぎったが言う必要がないな、と思いその言葉はグッと飲み込んだ。
「まぁ、でもさ噂なんて、それだけで信じるような奴はほっときゃいいんじゃない?」
 当たり障りのないことを言った。それしか言えなかった。
「ふふふ、でもね、根も葉もない噂なんだろうけどね、これがまた正解だったりするのよ。ほんと不思議よね?」
「は?」
 美樹は表面的にはとぼけて見せたが、頭の中ではさっきからあの意味深な映像が浮かんでいる。
「私ね、親にずっと虐待っていうの? まぁ殴る蹴るは少なくて、セックスばっかりだったけど、まぁつまりそういうことをされてたの。そうね、小学校の四年生位からね」
「……四年生」
「そうだね、ちょうど美樹君と始めて出会った頃ね。そういうことをされたのが先か、美樹君と会ったのが先かは覚えてないけど。ふふふ、そんなこと関係ないか」
 美樹は何も言えずに桜井美遊の次の言葉を待つことしか出来なかった。
「始めはねぇ、知識もなかったし別に嫌でも何でもなかったんだよ。ちょっと面倒くさいなぁ、って程度ね。恥ずかしくもなかった。私にとってはお風呂の延長みたいなものだったから。今日は眠いから嫌だ、何て言った記憶もあるわ。まぁお父さんが誰にも言うなって言っていたからきっといけない事なんだろうなって薄々は感づいてたけどね」
 淡々と言う桜井美遊の目を美樹はまっすぐに見ることが出来なくなった。何を言ってあげればいいのだろう…。そもそも何を感じればいいのだろう…。何もかもがわからなくなってきた。せめて泣きながら言ってくれれば何か強い言葉を言ってあげる事もできたのだが、こうも淡々と言われると先を聞くことしかできない。
「でも、ほら中学生位になるとそういう知識は嫌でも入ってくるでしょ? そっからはほんとに地獄だったわ……。でもね、私が本当に嫌だったのはお父さんに犯られることじゃなかったの。セックスってものが愛し合う人同士でするってことが嫌だったの。だってそうでしょ? 私はもうその時には何百回も、ううん、きっと何千回もしてたからさ、セックスが愛し合う同士でやるものだと、もう取り返しがつかなかったの。辻褄が合わなかったの。ふふふ」
 美遊はあの笑顔でそう言った。その笑顔を見ると心が明確な物質かのように重くなった。
「桜井…」
 思わずその名前が口から出てきてしまう。
「なぁに?」
 いつもと同じ調子で明るく答える美遊に悲しい違和感を覚えた。
「いや、別に呼んだわけじゃなくて……」
「ふふふ、そうね、かわいそうで、気持ち悪いから思わず口から私の名前が出ちゃっただけよね? 呼ばれただなんて思う私が変よね。でもほら、私頭おかしくなっちゃってるからさ、もう何がなんだかわかんないんだよ、ふふふ。美樹君はもう話聞きたくないかもしれないけど残念ながら話はまだまだ続くの、ふふふ」
 確かにもう聞きたくなかった。話を聞くだけで脳みそにひびがはいってくるような錯覚に襲われる。話を聞く前にあの光景を目の当たりにしていた。どんな内容の話かはある程度予想がついていた。しかし、桜井美遊の言葉は美樹の想像の遥かに超えていた。
「そうね、一昨年くらいだったかな、うん、確か中二だった。私ちょうど思春期でさ、まぁ、今さら思春期もなにもないわね、ふふ。でもまぁ不安定だったのよ。でね、もうお父さんに犯られるのがその日はどうしても耐え切れなくなったの。フェラまでは普通に出来たんだけど――」
「桜井!!」
 思わず叫んでしまった。こんな話を “笑っていない笑顔”で淡々と話す桜井美遊に恐怖のような感情を抱いてしまった。入学式の日に気味が悪いだなんて感じた自分を思い出した。救いたいだとか、気味が悪いだとか、美樹の頭は混乱し始めてしまった。
「何大声だしてるの? ふふふ」
 桜井美遊は美樹の恐怖の感情を見透かしていて、わざと意地悪な猫のように聞いてくる。
「さ、桜井、もう大体のことはわかったから。辛かったらもう話さなくても平気だよ?」
 優しい調子で言った。優しくするためではない。ともかく話を終わらせたかった。
「嫌よ。聞かせるの。私そう決めたの」
 それすらも見透かしたように言う。
「……もうたくさんだよ。……聞きたくないんだ」
 脆弱な本音が出てしまった。さっきの「力になってやる」だとかの自分の言葉を思い返すと自分が情けなくなる。だけど怖かった。桜井美遊の話が。桜井美遊自身が。そして弱っちい自分自身が。
「駄目。美樹君言ったじゃない? 何か力になれることはないかって、まだ間に合うかってさ、だから聞かなきゃダメなの、ふふふ。それとも嘘だったの?」
「………」
 やはり全てを見透かされていた。……中途半端な自己都合の優しさを。
美樹はもうこの場に居ることすら苦痛だった。ビニールシートの中から飛び出したくなった。しかし逃げないで聞いてあげなければならない。それはきっと自分がいい奴だっていう証明のため、“あの時”から自分が変わったという、強くなったという証明のため。
……俺はいったい何をどうしたかったんだ?
美樹の言動、行動、その全てがはなから桜井美遊のためなんかじゃなかったということに初めて気付いた。“俺って奴はなんて奴なんだ。最低だ。クソだ”……何も言えない。
「ふふふ、黙っちゃった。じゃあ、続けるわ。えっと、何処まで話したっけ、あっ、フェラまではいつも通り出来たってとこね、ふふ。そう、それで、いざ入れられるって時に私拒否したの、人生で始めてお父さんとセックスすることを拒否したの。いや〜! やめて〜って泣き叫んでね、なんかもうドラマみたいだったよ。その時にはなんか走馬灯のように今までされてきたこと思い出したなぁ。なんてったって何千回分だからね、そりゃ頭おかしくなるよね。もう本当に最悪だったわ。今まで考えないようにしてたこと考えちゃったわけだからね。きっと私そこから本格的に頭おかしくなっちゃったの。何も考えないバカは幸せそうでいいなぁ〜ってよく言うでしょ? あれ本当よ。ふふふ」
 桜井美遊は“笑っていない笑顔”で美樹を見ている。もう無理だった。桜井美遊を救うためではなく、自分自身のために桜井美遊を追い、今まで話を聞いていた美樹は桜井美遊から顔を背けようとした。その瞬間、美樹の頬に桜井美遊の両手が触れてきた。ゾクッと体が震える。その手は美樹の顔をしっかり掴み、強制的にまっすぐ目を合わせられた。桜井美遊の顔が近づいてくる。鼻先が触れるか触れないか、そんな距離で顔は止まった。吐く息が美樹の顔にぶつかる。
「目……逸らしちゃ駄目よ?」
 桜井美遊の声はムカデの足音よりも小さく、顔は雪の日の鉄よりの冷たかく硬かった。そして、また“ふふふっ”と笑ってあの笑顔に戻り話を続ける。顔から手が離れる気配はない。
「私、出来る限りの声で叫んだわ。いやだ、やめて、終いには、誰か助けて〜ってね。自分の声で鼓膜が破れるかと思った。でも叫ぶのは辞めなかった。だって嫌だったんだもの。ふふふ、嫌だったんだよ私」
 顔を背けることは桜井美遊の両手が拒んでいた。目を逸らしたところでどうにかなる距離ではなかった。桜井美遊の目は笑っていない。
「お父さんを押しのけて、立ち上がって逃げまわったわ。裸でよ? 馬鹿みたいでしょ? お父さんはもっと馬鹿みたいなの。だって裸の私を追いかけ回したんだから、ふふふ」
 桜井美遊の親指が美樹の瞼の少し上を押さえた。瞬きすら許さないようだ。目を瞑るわけにもいかない状況で美樹はこの話の続きを聞かなければならなかった。
「それでね、こうなったら外に向かって助けを呼ぼうって思ったの。窓開けて、叫んだわ。お願い、誰か助けて〜って。そしたらね……、風が吹いたの。ぴゅ〜って風が吹いたの。何度も何度も叫んだ、でもね、その度に風がぴゅ〜ぴゅ〜吹くだけなの。不思議なくらい誰にも聞こえなかったわ。だって誰一人助けに来てくれなかったもの。それでも私が叫んで助けを求めてたら、いきなり後ろからお父さんに殴られたの。ふふふ、ここで問題よ? いったい何で殴られたんだと思う?」
 美樹は目を見開いて桜井美遊を見つめているだけで精一杯で答えることなんて出来なかった。何かを考えることすら困難だった。
「ヒントをあげる」
桜井美遊が顔を掴んでいた右手だけを外して美樹の手をとり、自分の後頭部を触らせた。美樹の手は桜井美遊の髪の毛に隠れていたボコッと膨れ上がった皮膚の感触を感じとった。その皮膚をなぞらされた。大きな傷跡だった。
「ふふふ。おっきな傷でしょ? 何だと思う? バットだと思う? それともゴルフのドライバー?」
 美樹はその頭の生々しい傷跡の感触と間近で見る桜井美遊のこの笑顔、そして話の内容で体の芯から凍りついた。
「早く答えてよ」
その体の中をヌメヌメとした蛇が這い回り、全身の産毛が逆立ち、凍りついたはずの体がガタガタと震えだした。頼む、もう辞めてくれ。もう聞きたくないよ……。しかし声を出す事も叶わなかった。
「震えても駄目よ? 美樹君は話を最後まで聞くの。だってそう言ってくれたじゃない」
 美遊は頭に持っていった美樹の手から手を放し、再び美樹の顔を両手で掴む。それも美樹の震えを押さえ込むように力いっぱい。放された美樹の手はゆっくりと力なく落ちた。
「……もう、嫌だよ。やめてくれ」
 やっと出せた震え、擦れた声は悲しいくらい情けない言葉だった。
「ふふふ、声まで震えちゃって、美樹君には何も起きてないのよ? 全部私に起きたことなのよ? 名前だけじゃなくて、中身まで女みたいね。ふふふ。まぁ、いいわ、正解発表してあげるわね。答えはバットでもドライバーでもなくてね、ビール瓶。しかも中身が入ってるやつ」
 震えは一層増した。大地震が起きたかのように桜井美遊の顔が揺れる。
「お父さん酒飲みだから、ビール瓶たくさん家にあったの。ふふふ、なんだかドリフみたいでしょ? 裸で逃げ回った挙句、ビール瓶で頭をドーンだよ。おかしいね? ふふふ、しかもね、私の頭から血が噴出したの。ほんっとドリフでしょ? でも死ぬかと思うくらい痛かったわ。あまりの痛みで気絶したはずだったんだけどさ、倒れたところにそのビール瓶の破片が散らばっていてね、背中にいっぱい刺さったんだ。それで痛くて意識取り戻したんだと思う。詳しい事はわからないわ。でもきっとそういうものなの。かわいそうで気持ちの悪い私にはそういうことが起きるようになっているの。その後お父さんどうしたと思う? うん、まずは窓とカーテンを閉めた。それはそうよね? 見られちゃまずいもの。それから、私を犯したの。背中にビール瓶の破片がいっぱい刺さってんのに、激しく腰を動かすんだよ? 酷いと思わない? だから、私体育もプールもやらないんだ。着替えるときに背中の傷見られちゃうからね。あ、別にあれよ? 背中の傷を見られることが嫌なんじゃないの。でも説明しなきゃいけないじゃない? もちろん本当のことは言えるはずないから、今までは交通事故だとか、転んだとかたくさん嘘吐いてきたけど、やっぱ嫌なのよね、なんかお父さんのために嘘吐いててるみたいでさ」
 美遊は美樹の手を今度は背中に持っていって、ブラウスの下から傷口を触らせた。美樹の震えがさらに大きくなる。
「震えないの」
 そう言って顔を掴んでいるほうの手を林檎でも潰すかのように力いっぱい握り締めた。
「話続けるわね。そう、頭もメチャクチャ痛いし背中も死ぬほど痛いし、あそこにはお父さんのチンチンが入ってるの。でも私ね、もうその時は叫んだりしなかった。泣きもしなかったわ。気付いたのよ、窓開けて叫んだときにね。“あ〜、そうなんだ、言葉は風に吹かれて消えちゃうんだ”ってことにね」
 美樹は教室で軽く聞き流したこの言葉を聞くと美樹の目から涙が溢れ出してきた。桜井美遊はあの時もこんなことを思い出していたんだと気付いたからだろう。ただ、美樹は泣いてる自覚すらなかったが。
「ふふふ。泣いちゃったねぇ? もう少しでこの話終わるから頑張ってね。ふふふ。そう、その後ね、あ、お父さんが果てた後のことよ? お父さんベルト締めて、そのままどっかにフラッといなくなったの、こっちは血まみれなのにね。ホント酷いったらありゃしないよね? だから私、家に置いてある救急セットみたいので傷口消毒したの。頭に包帯巻いてさ。だけど包帯が無くなるまで巻いてもドンドン血が滲んでくるの。畳にも血が滴り落ちたわ。まぁ、そんなのはどうでもよかったんだけどね。でもとりあえず痛くて痛くて、二、三日はまともに眠れなかったな。でもね何日か経つとドンドン傷口が塞がってくるから人間って不思議よね? 傷なんて塞がらなくてよかったのに。だって傷が塞がったところでいったい何になるっていうの? こんなに汚くて、ぐちゃぐちゃになってしまった私の傷を塞いでどうなるっていうの? そうでしょ美樹君?」
 桜井美遊は美樹を掴んでいる手で無理矢理頷かせた。
「ね。そうよね、ふふふ。それからね、一週間後くらいにお父さんが帰ってきたの。それでね、何にも言わずにまた私を犯そうとするんだよ、私もう嫌だって思ってさ、私の頭とぶつかって割れたビール瓶をあそこに刺したの、お父さんの見てる前で何度も何度もね。生理の時なんて目じゃないくらい血がドバドバ出たよ。そしたらね、お父さん言ったの“そんなに嫌だったのか……、ごめんな”って。ふざけてると思わない? 私心底、悔しくなっちゃってお父さんをねビール瓶で刺したわ、もちろん大した怪我負わすことなんて出来なかったけどさ、ふふふ」
 ……俺はどうすればいい? 助けきれない、力になるって一体どうすればいいんだ…。だって地獄なんだ、桜井は地獄にいるんだ。美樹は泣き震えながら心で嘆いた。
 あのとき俺が何とかしてやっていたらそんなことにはならなかったかもしれないんだ。俺が桜井をこんな目に合わせたのかもしれないんだ。
「それからね、私なるべく家には帰らないようにしたの。あ、もちろんそれからは私は犯されなかったよ。だってもうセックスできる体じゃないからね。でも、ほら、なるべくお父さんとは会いたくないじゃない? だから救急箱もって川原に来たの。ほら見て」
 美遊が目で促した先を見るとビニールシートの青色が目に飛び込んできた。まさか?
「ふふふ、そう、ここに逃げ込んだの。きっと乞食が昔使っていたやつね。冬がほんとに辛くてさ、ふふふ。まあ、それでもたまに家には帰ったんだけどね。だって私まだ学生じゃない? そうしなきゃいけない時だってあるの。そうそう、私初日に上履きなかったの覚えてる? 無くて怒られたからね、私欲しくてお父さんに頼んだの。そしたらね久しぶりにフェラしてくれたら買ってくれるって言われたの」
 もううんざりだ、止めてくれよ。心の底からそう願った。しかし願いは届かず話は続いてしまう。
「私やったわ。一生懸命やった。そしたらね何日かして家に帰るとテーブルの上に上履きが置いてあったの。私どう感じたと思う? ふふふ、私ねぇ、ちょっと嬉しかったの。馬鹿でしょ? でもね、私の頭はおかしくなってるからしょうがないよね? ふふふ」
 涙が止まった。
「頭のおかしいマッチ売りの少女はね、こうやって生きてきたの。ねぇ、美樹君、マッチ売りの少女が天国にいけるなんて嘘でしょ? この記憶を持ったまま天国に行ってどうするのよね?」
震えも治まった。悲しさ、情けなさ、悔しさ、怖さ、美樹の中のそれらが他の感情に変わっていったのだ。変わった感情は美樹の中で急激に湧き上がってくる。
「あと、どんなことあったかな……、あ、そうそう、こんなこともあったわ。確か、五年生のときね――」
 桜井美遊の言葉はもう頭には入ってこなかった。沸き起こる感情に支配された。それは怒りに似た感情だったが少し違った。“ふざんけんな”だとか“上等だよ”だとか“俺に何が出来る?”だとか“もう嫌だ”だとか、そういうものを全てひっくるめた感情だろう。簡単なものに言い換えるなら“興奮”かもしれない。そう、美樹は興奮に包まれたのだ。
 美樹は掴まれている腕を掴み、それを顔から放した。
「何? どうするの? 逃げるの? ふふふ。いいわよ? 逃げなさい」
美樹は美遊を抱きしめた。
「ふふふ、何するつもり?」
 美樹は黙っている。
「駄目よ? 私とやりたいとか思ってももう私のあそこね、傷口が変な風に塞がっちゃってるからチンチンなんて入んないよ? なんか処女みたいでしょ? ふふふ、あ、それ以前に私みたいのとやりたくなんてないよね? 気持ち悪いもんね、ふふふ」
「……黙れよ」
「黙らないわ。だって美樹君は私の話を聞いてくれるって言ったんだもの」
「うるせー!!」
 美樹は突然怒鳴った。すると桜井美遊の体がビクッと震えた。それは再会してから始めて美樹が感じた桜井美遊の人間らしい姿かもしれない。
「な、なに怒鳴ってんのよ?」
 美樹はその言葉に答えずきつく、そして優しく美遊を抱きしめた。
 
“……もう聞きたくない、聞きたくないんだ”


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