風に吹かれて消えちまう



幕間


町並みが凍りついてしまうような二月のある日。
枯れ葉を巻き込んで吹きすさぶ空っ風の中、トタン屋根のみすぼらしい小さな家の前で美樹は変わらず突っ伏して泣き続けていた。
肩を震わせ小さな嗚咽を漏らし泣き続けていた。
もう、かれこれ二時間はそうしている。
 
美樹はあれから、十六歳の夏の記録的な台風が上陸した“あの日”から、いったいどう過ごしていたのだろうか。
毎日毎日こんな風に泣いていたのだろうか?
確かにその後の数ヶ月は泣き続けていた。冗談でもなんでもなく気が狂ってしまいそうになった。
だが、狂いきれなかった。
いっそのこと狂ってしまいたい、そう思ったことは数え切れなかった。しかし、気が狂いそうになるたび、ブレーキをかける自分がいた。そんな何とか平静を保とうと考える自分を自分自身の手で殺してやりたかった。
だが、死ねもしなかった。
ひどくバランスが悪かった。狂いたくてしょうがないのに狂わないように努め、死んでしまいたいのに、死を連想させるものを遠ざけた。
誰かといることは苦痛すぎた。誰かと共に過ごす事によって何かが起こるという当たり前のことが怖かった。そしてなにより、ヘラヘラとしてしまいそうな自分が許せなかった。
しかし、何もせずになんてとてもじゃないがいられなかった。
結局、高校生の美樹は平静を保つための手っ取り早い方法として勉強を選んだ。机に向かい、教科書や参考書に没頭している間は“あの日”を思い出すことがなかった。
公式や単語やらを覚えるたび“あの日”の記憶が薄れていくような感覚があった。
気づくとそれが習慣となり成績も上位になった。そして、有名大学へと見事合格することが出来た。
春になり実家を出て大学の近くでアパートを借り住み始めた。
 大学生活は周りの大学生と同じように過ごしていた。
 ほとんどの時間をクラスメイトやサークルの仲間と過ごしていた。楽しい事があれば皆と同じように笑えるようになっていた。自分から楽しげな話題を振ることもあった。
そのうちに記憶が薄れ、身を切る悲しみや内臓を抉る苦しみ、殺意すら芽生える自己嫌悪も少しずつ消えていった
しかし、それは表面的なものに過ぎなかった。根本的なものは何一つ変われていなかった。何かのきっかけで自動的に、どこにいようと、誰が傍にいようと涙が流れ出し、止まらなくなってしまうことがたまにあった。
きっかけは様々あった。桜井という名前だとか、川原の匂いだとか、青い色だとか、風だとか。ともかくそんなことのたびに涙が溢れ止まらなかった。
それでも美樹は大学を卒業し、職に就いた。営業の仕事を毎日汗を流し頑張った。それなりの成果は上げることが出来た。
しかし、その仕事は昨日辞めた。
一人の夜だった。残業で疲れた体でアパートに帰った美樹は万年床と化した布団にスーツのまま横になった。
ぴゅーぴゅーと窓の隙間から風が入り込んできた。
その風が顔に当たると自分が泣いている事に気付いた。慌てて立ち上がり窓を施錠した。
 窓ガラスが鏡代わりとなり自らの顔を映した。
 誰だかさっぱりわからなかった。ただ、その窓ガラスに映る顔が憎くてしょうがなかった。近くにあったガラス製の灰皿を投げつけ窓ガラスを割った。ガラスは粉々に飛び散った。
 それは恐怖だった。桜井美遊のあの話が思い浮かんだのだ。
 飛び散ったガラスの破片を拾い上げ両手で握り締めた。ポタポタと血が流れ落ち、布団を赤く染めた。
 大声で泣いた。血だらけの手で、頭を掻き毟った。
 もうダメだった。これ以上踏ん張れないと悟った。箪笥からコートを取り出し、家を飛び出した。
 歩いた。ひたすら歩いた。手が痛むことに気付いたのは三時間以上経過してからだった。しかし、それでも歩いた。ただ歩いた。
 そして、美樹は一日半歩き続け、この町に辿り着いたのだった。

 顔を上げ、涙で滲んだ視界で桜井家を再び捕らえた。
……そうだ。俺はこのことを乗り越えなくてはならないんだ。逃げきれるようなものではなかったんだ。
赤く濡れた手のひらを握り締める。
……今、あいつはいったいどんな気持ちで日々を過ごしているのだろうか……? とにかく一目でも見ないと気がすまない。幸せなのだろうか、それとも不幸せなのだろうか、その暮らしぶりによっては俺はきっと……、俺がきっと……。
「それで罪滅ぼしのつもりかよ……?」
 美樹は桜井家を睨みつけながら、小さな声で自分自身に語りかけた。そして、その問いに美樹は何も答えなかった。
 当然その言葉は風に吹かれて消えた。


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