風に吹かれて消えちまう



第四章 記録的な台風





美遊は時間の感覚がなくなるくらい長い間抱きしめられていた。
抱きしめられた瞬間から今まで、いくら何を言おうと美樹は受け答えすることなくその抱きしめる腕を強めてくるのだ。美遊はしゃべるのを辞めざるを得なかった。今まで何度となく父親に抱かれたことはあったが、こんな風に“きつく”抱きしめられた経験が美遊にはなかったため、どうしてよいのかわからなくなってしまったのだ。しかし、自分が自分でなくなっていくのだけはわかった。いつしか体がガタガタと震えだした。それを優しく包むかのように美樹は抱きしめてくる。それでも美遊の体はカタカタと音が鳴りそうなくらい震えてしまっている。美樹の腕の力がふっと抜けた。
「ふふ…ふ、美樹君、何してるの?」
 震える声で言った。努力したが笑顔は作れなかった。美樹の右手がYシャツのボタンに掛かった。
「だ、だからダメだって…」
 しかし、抵抗する力が出ない。シャツは簡単に脱がされてしまう。続けざまにブラジャーのホックを外された。
「……やだ、やだよ」
するっとブラジャーが前に落ちる。華奢な上半身が露わになった。父親に付けられた赤い傷、黒い傷、蚯蚓腫れ……、そういったものを見られた。……恥ずかしい、しかし隠そうにも体は動かない。美樹の顔を見ると自分の体を見てなにかしらのショックを受けているのが明らかにわかる。……見ないで、切にそう願った。
 すっと抱きしめられた。
 美樹の優しさが自分の体の中にトクトクと流れ込んでくるような錯覚に陥る。それが堪らなく怖くなった。
「……やめてって、美樹君……お願い、止めて……」
 美樹の肩越しの青色を虚ろに見ながら言った。
「桜井? 桜井はな、まだ処女なんだよ」
 耳もとで小さく囁かれた。美遊には美樹が何を言っているのか皆目見当がつかない。
「何言ってんの? 散々話して聞かせてあげたでしょ? 私のこと……」
 自分の声ではないみたいにカサカサに擦れた声だった。
「俺もさ、まだ経験ないから、確信はないけど、きっとな、抱かれたい相手に抱かれてから初めて処女じゃなくなるんだよ。お前が今までしてきたのはセックスじゃない、……うん、絶対違うよ」
 またトクトクとなにやら暖かいものが体の中に入り込んでくるような気がした。それは美遊にとっては恐怖以外の何物でもなかった。
「……やめて…、や、やめてよ…、違うの、こうじゃないの、美樹君が私にこんな風に歩み寄ってきちゃダメなの……」
「桜井、さっきの教室の時と、……それとあのとき、お前を守ってやれなかっただろ? だからこれから俺がしっかり守る。そう決めたんだ。なぁ、さっきも聞いたけどもう間に合わないのか?」
 美遊は幽霊でも見てしまった、そんな表情だ。顔は蒼白で歯がカタカタ鳴る。
「だ、駄目だって、違うの、違うのぉ。怖いよ……、美樹君、もうどっか行ってよ、放してよ……」
「いやだよ、ぜってぇやだ」
 美樹の腕の力が更に強くなる。美遊の体がセトモノで作られていたとしたらバリンと音を立てて壊れているだろう。
「お願い、放して……。お願いします。放してくれないと私多分もっと頭おかしくなっちゃうよぉ……、もう十分頭おかしくなってるはずなのに。そしたらホントに狂っちゃうよ……、だから放して! お願いだから、放して!」
 言葉とは裏腹に体には全く力が入らない。しかし、このままでは、こんな風にされたら大袈裟ではなく狂ってしまう。
“怖い……放して……怖いよ……”
そんな言葉が蟻の大群のように体中を駆け巡る。今にも皮膚から飛び出してしまいそうだ。
「……狂っちゃえよ?」
 小さな音が聞こえた。
「狂っちゃえばいいじゃねぇか。そんで全部忘れちゃえよ……、そしたら根底から変われんだろ?」
 脳天からつま先に掛けて電流が流れるのを感じた。
“……美樹君”
 声にはならなかった。
「なぁ、メチャクチャに狂っちゃえよ……。もう取り返しがつかないくらい狂っちゃっていいよ。訳わかんなくなるくらいまで狂っちゃえ。俺がいてやっから……。ずっといてやるから」
 美遊の“ココロ”と言われる部分が電流を帯びることにより破裂した。破裂音は美遊の何もかもを引き裂くほど衝撃的なものだった。破裂した“ココロ”の残骸から自分自身にも隠していた思いが溢れて出てきた。次から次へと、本当は怖かったこと、忘れたかったこと、が溢れてくる。もう息が出来ない。
“……溺れる”
「……み、美樹君」
 やっと出た息は美樹の名前を呼んでいた。
「おう、ここにいるよ」
 頭上何百メートルから降ってくる大きな岩が頭にぶつかるかのような優しさを感じた。美遊にとってそのくらい衝撃を持った優しい言葉だった。
いったい私はどうすればいいの……、わからないよ。何も出来ないよ。だって息すらまともに出来ないんだもん。
「……み、美樹君、私ね、美樹君にだけは嫌われたくなかったのぉ……、普通に話とかしたかったのぉ。だから、最近学校行くとしゃべれてすごい嬉しかったのぉ。でも私と仲良くすると美樹君他の人たちに変に思われるでしょ。わかっててもしゃべりたくて。でもさっきそれを再確認して……、だから逃げたの。ごめんねぇ」
 息も絶え絶えながらそう言うと、美樹が頬を美遊の頬にくっつけてきた。
「桜井が謝ることじゃないだろ?」
そしてさらに密着するように抱きしめられた。もう死んでしまいそうだった。死を拒絶する生物の防衛本能のためか口が勝手に動いてしまう。
「でもね、こうやって優しくされるほうがもっと怖かった。だって……、だってもし、私のこんな部分がバレて優しくされてもそれは一瞬で、きっとすぐに私を気持ち悪がるから……、違うよ? 美樹君を悪く言ってるわけじゃないよ? 今までずっとそうだったからそう思うの……。だから嫌われるくらいなら、私自分から嫌われるように仕向けたかったの、自分から嫌われてやらなきゃ駄目だったの、自然に美樹君が私を嫌っていくのが嫌だったの。だから私、今、突き放す為に色々言ったの……、嫌われてやろうって思ったの……。クラスのみんなが私を見る目で美樹君に見られたくなかったのぉ……」
 言ってはいけないはずのことまで言ってしまっている。だけど何かを言わないでいると死んでしまいそうだった。
「桜井……、これからずっと俺が守ってやるよ……そう決めたから。だから安心しろよ」
 相変わらず美樹からは教会のベルのような優しい言葉が鳴っている。頭が割れそうになる。
「嘘よ、そんなわけないじゃない……」
 ……本当は信じたかった。それを信じる事が出来たらどんなに嬉しいか。でも、そんなこと信じれるはずがない……。そんな強くて優しい言葉だって風が吹けば消えてしまうはずだ。
「俺がずっと守ってやる!」
 美樹が大きな声を出した。リンゴンと鳴り響くその言葉で鼓膜が破れてしまいそうだ。
………もういい、信じるだとか、疑うだとか、いずれ気持ち悪がるだとか、怖いだとか、狂うだとか、もうどうでもいい……。
美遊の中で何かが変わった。
“ただ、もっと優しくして欲しい”
美遊は散らかった頭でそんなふうに思った。
「美樹君、ごめんね……、さっきは美樹君を傷つけなきゃ私ダメだったの、ごめんねぇ」
「謝るなよ……、謝んなきゃいけないのは俺のほうなんだから……」
「美樹君が? どうして?」
「どうしても……、なぁ桜井、セックスしようか?」
「え?」
 その言葉は服を脱がされているのにも関わらず唐突なもののように感じた。
「嫌か?」
「ううん。……嫌じゃないよ。でも、私もう、ちゃんとできる体じゃないよ? 傷口変な風に塞がっちゃったから……」
 そう言うと美樹の腕が一瞬ぎゅっと力強く美遊を抱きしめ、そして放れた。目が合った。美樹は目を真っ赤に腫らしていた。
「構わないよ、なぁ桜井俺に抱かれたい?」
「……うん」
「じゃあ、俺が桜井の初めての男になるんだ」
 そして口づけをされた。

“………もうどうだっていいからとにかく優しくして、口から内臓が飛び出すほど強く抱きしめて……”

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