風に吹かれて消えちまう



第四章 記録的な台風





 青いビニールシートのテントからの帰り道を美樹は一人テクテクと歩いている。
今はもう真夜中。月もない。街灯のない土手沿いの暗さはさらに深みを増し、まるで墨汁の中を歩いているようなだ。暗すぎて歩くことすら難しい、それくらい真っ黒の夜だった。しかし、美樹は真っ暗な道でよかったと心底思っていた。自分の暗くなった気持ちが墨汁に溶けて同化するからだ。もしも、今が日中のさんさんと輝く太陽の下であったら美樹は発狂していただろう。発狂してしまいそうになる原因はもちろん桜井美遊のことだ。あそこまでの過酷な地獄を生きていたということを知ったため、それもある。
しかし、それだけではなかった。
 今、美樹の頭と心がまるで正反対なことを主張し合っていた。頭は、
“あいつを守ってやれるのは俺しかいない。これから桜井美遊を大切していきたい”
そう主張している。しかし心は……、心は、
“なんて大それたことを言ってしまったんだ……”
そう嘆いていた。
……俺は、俺はきっと、桜井のことが好きなわけではない。さっき言ったこと、したことは同情や過去に対する贖罪のため、そして全てを取り繕うためであったような気さえしてしまう。あのときは臨界点をとうに超えていた。もちろん計算してしたことではない。しかし、今冷静になって考えてみると、桜井美遊に向けた愛情の言葉ではなかったような気がする。ともあれ覚悟をして言った言葉でないのは明白だった。
街灯のある道までたどり着いた。しかし足取りはおぼつかない。
“俺はもう取り返しのつかないくらい最低で信じられないくらい最悪でどこまでも汚い。いったいどうすればこんな自分を浄化できるのだろうか……”
嘆き苦しみ自分をさげずんでみた。何も変わらない。頭の片隅にある重要な言葉を読んでみた。
「俺は……俺は……、俺は倫子が好きなのだ」
 世界がくすんで見えた。
 
 あくる日美樹が目を覚ますと時間はすでに毎朝乗っている電車が駅を発つ時間だった。夜うまく眠ることが出来なかったため、当然のように寝坊してしまったのだ。幸い母親は主婦仲間とぶどう狩りだか巨峰狩りだとかに出かけていたため特に小言を言われなくて済んだ。もしも今のこの精神状態で小さなことだとしても何か嫌なことを言われでもしたら自分がどうなってしまうかわからなかった。美樹は目覚めた体勢のまま何かするでもなくリモコンでテレビを付けた。するとどのチャンネルでも記録的な大きさの激しい台風が上陸するだとか言っていた。そういえば窓の外では風が激しく鳴る音が聞こえている。ガシャンと何かが倒れるような音も聞こえてくる。しかし、全く興味はないし、わかない。今の美樹にはきっと世界が滅びるような天変地異のニュースでさえ鈍くしか反応できないだろう。
学校に行こうか……、それともサボってしまおうか……。しばらく考えた。しかし、もし今日自分が休んでしまったらきっと桜井が不安に思うだろう。行かなければならない。美樹はゆっくりと学校に行く用意をした。

三時間目の授業中である教室の扉を開けるとクラスの連中が美樹に注目してくる。必要以上に自分のことを見てくる気がする。特に倫子としのぶの視線を痛く感じた。誰も見ないようにしながら自分の席に着く。隣の席を見た。誰も座っていなかった。少ししてからようやく桜井美遊が来ていないことに気付いた。
何かあったのだろうか? 大丈夫だろうか?
頭の中で呟いてみたが、そのことでホッと胸を撫で下ろしている自分を見つけてしまった。……嫌になる。頭を抑え机に蹲った。そうでもしないと感情が抑えられなかった。こんな風に昨日の帰り道から今まで美樹は五秒に一度は叫びだしたいほどの自己嫌悪に陥り、その他の四秒は何も考えられずにいた。
「――なぁ武藤!」
 後ろの席から村上が話しかけてきた。話しかけんじゃねぇよ、そう思い無視をした。
「おい、武藤ってば! おいって!」
 しつこく話しかけてくる。美樹は答えない。
「無視すんなって武藤ちゃん」
 神経を直接撫でるような声だった。いい加減頭にきた美樹は振り返り村上を睨んだ。
「なに睨んでんだよ? まぁ、いいけどよ。それよりよ昨日はあれからどうしたんだよ? 武藤が遅刻して、桜井が来てないってことはお泊りでもしたわけか? はは」
 ……頼む。……それ以上しゃべんな。
「無言ってことはやっぱ、やっちゃった?」
 ……もう無理だな、ちくしょう。
「ははは、どうだったよ桜井は? 上手かったか? いい体し――」
 村上が話の途中で椅子ごと後ろにぶっ倒れた。美樹が殴ったのだ。教室中が激しくざわめいた。女子の中には悲鳴を上げるものもいる。そんな浮き足立った教室を尻目に美樹は黙って扉のほうに向かった。ふらふらと向かった。担任の教師もいきなりの暴力に戸惑ったのか美樹が出て行こうとするのを止めることはしなかった。
 
?!!!!!
 
教室を出る間際、妙な違和感がした。寒気がするほどの違和感。慌てて振り返った。
「っあぁぁ!!」
 目を疑った。
そこには顔の上から半分が天上まで届く奴もいれば、溶けたような顔の奴までいた。クラスメイトの顔が歪んでいるのだ。
なんだこれは? いったいなんなんだ?
 担任の教師の顔を見る。意味がわからない。目玉がたくさんあった。……化け物だ。周りを見渡すとどこもかしこも化け物だらけだ。
なんだよこれは? 見たくない。気持ち悪い。恐ろしい。
「み、美樹君!」
 ひときわ醜い化け物が自分の名を呼びながら走りよってくる。
「うわぁ」
 美樹はその化け物を突き飛ばした。突き飛ばされた化け物はうつ伏せで倒れこむ。そして振り返った。なんと、その顔は倫子だった。美樹は目を白黒させ倫子を見る。倫子は泣きそうな目で美樹を見ている。教室中を見回すと先ほどの化け物だらけの教室はすでになく、いつも通りのクラスメイトが美樹を非難の目で見ていた。
「武藤君!! なにやってんの!」
 席を立ったしのぶが叫ぶ。
「あぁぁぁ……」
 美樹は情けない声を出し教室から走って逃げ出した。

“あぁ、俺は頭がおかしくなってしまったのか……”

「あぁぁぁ、うわぁぁ」
 真っ直ぐは走れない。壁や教室の扉などに何度もぶつかりながら走った。
 とにかく帰ろう。何も考えずに眠ろう。
そんなことを思いながら階段を駆け下りる。
三階と二階の踊り場に差し掛かったとこだった。そこにはめ込まれている窓からまたもやおかしな光景が目に飛び込んできた。
それは落下する制服姿の少女だった。
 瞬間、時が止まった。その止まった時の中で落下する少女と目があった。
 ………落下する少女は間違いなく桜井美遊だった。
「……う、嘘だろ?」
 また変なものが見えてしまったのか……? さっきみたいに。俺のおかしくなった頭が見たくない映像を見せたのか? ……それとも本物? まさか…。ともかく俺は今とんでもなく冷静でない。それだけは確かだ。だからきっとまた幻覚だ。そうに決まっている。だって目なんて合うはずがないじゃないか!
 ――ドサッ。
 嫌な音だった。そしてどこまでもリアルな音だった。恐る恐る窓を開け下を見る。すぐに目を背けてしまった。……下には制服姿の少女が落ちていた。足に力が入らなくなりその場にへたり込んでしまう。
 なんだこれは? 俺はいったい何をしたんだ? 何がどうしたらこんなことになる? あぁ、頭が割れそうに痛い……。
「行かなきゃ……、行かなきゃ」
 美樹は自分の足を何度も殴ってなんとか立ち上がった。
「……行って確かめなきゃ」
 一歩踏み出した。するとバランスを崩し倒れそうになってしまう。倒れないようにとまた一歩踏み出す。そうやってたどたどしくその落ちていた女の子の場所へと歩いた。
「……まさか、確かに目があった気はしたよ? でもよくよく考えればあんな一瞬で誰かなんて判断出来るわけないじゃないか、馬鹿なこと考えるもんじゃないよ」
 なんとか一階にたどり着いた。
「はは、きっとあれだ。今日は集団自殺クラブの決行の日なんだよ。インターネットで集まった若者たちが世の中を憂いて飛び立ってるんだ。なんてったってうちの学校の屋上は他のところよりも高いからね。決行の場所に選ばれる確立は相当高いんだ」
 下駄箱で靴を外履きに履きかえる。上履きはそのままにして、昇降口から出た。
「校舎裏にはきっと死体の山があるんだ。死体の山は相当高いんだ。だから最後に飛び降りた少女だけが助かるんだ。俺はその少女と激しい恋に落ちるんだ。神社でキスするんだ」
桜井美遊でないように、他の誰かなら誰でもいいから、そう願いながら歩いた。
 外に出ると台風の前兆のせいか生ぬるい強い風が美樹のシャツをバタバタと音をたたせるほど吹き荒れていた。そんな風に吹き飛ばされそうになりながらも、校舎裏まで歩いた。
……この角を曲がれば誰だかわかる。怖いか? いや、全く怖くないよ。だって未来の恋人がいるんだぜ?
速度を緩めることもなく角を曲がった。
 さっき窓から見た通り、うつ伏せで少女が落ちていた。さらに距離をつめる。足元に倒れる少女の腕が、足が奇妙にねじれている。膝を突いて抱きかかえ顔を確認した。顔の右側が熟れすぎたトマトのようにグズグズに潰れ、赤い液体で濡れていた。そして左半分は……桜井美遊に間違いなかった。
 美樹の目から涙が溢れだした。怖いから、悲しいから、辛いから、どれのせいで溢れているのかはわからなかった。
「……美樹君?」
 桜井美遊が口を開いた。
「……う、うん」
「美樹君ってすごいねぇ、こんなと…きにも駆けつ…けてくれるんだ。かっこ…よすぎるよ?」
「はぁ? 何言ってんだよ?」
「…ご、ごめんねぇ、私、美樹…君の辛い思い……出に…なっちゃうよねぇ」
 頭を抱きかかえる美樹の手に生暖かい血液がドクドクと流れてくる。どこにぶつかったのか、お腹からも信じられないくらい血が溢れ出てくる。もう、桜井美遊が助からないことは何の知識もない美樹にでもわかった。
「待ってくれ……、なんだよこれ? わかんねぇよ……、わけわかんねぇよ」
「わ…私ね、堪え……られなくなっちゃったの。美樹君…がね、私のこと好きになってくれてすごい嬉しいんだ…よ? ホントだよ? で…でもね…、その分、今までの私が許せなくてさぁ、ううん、これからの私も許せないの……、だって私が普…通の娘だった……ほうが美樹君嬉しいでしょ? そしたら美樹君かわいそう。そう思ったらもう…駄目だったの……、他になかった」
 桜井美遊の死に際の顔はお世辞にも綺麗とは言えなかった。……むしろ恐ろしかった。
「美樹君? 好き……だよ。私初めて、お母さんがまだ家……にいた小さい時はあったかも知れないけど覚えてる……限り幸せなんて感じたのは昨日だけ……、嬉しかったなぁ…、守ってくれるって言うんだもん。そ、側にいろ、だ…なんて言ってくれるんだもん。ホント嬉しかったなぁ、ありがと。……ごめんねぇ」
 美樹の涙が桜井美遊の顔に落ち、その血に混ざった。
「ねぇ美樹君お願いがあるの…」
「――な、何?」
 必死に嗚咽を抑えながらそう言った。
「愛して……るとかって言ってもらって…いい? あと、名前で呼んで欲しいな私その言葉聞いて終わりたいな……。わがまますぎるかな?」
 “そんなことない”そう言おうと思ったが美樹は嗚咽で声が出ない。
「泣……かないで…、しょうが……ないんだよ。美樹君は一つも悪くないんだよ。だってどうせ無理だったんだもん私。……美樹君に再会できたこと、私本当に嬉し…かった…んだから……」
 美樹は必死に言おうと試みた。愛してるだとか、美遊だとか。しかし嗚咽で言葉が出ない。……そして愛していない。それでも必死に嗚咽を抑え、何かを言おうとした。……初めは何を言えば良いだろうか。どう言ったらいいのだろうか。何を伝えようか。強く吹く風の中必死に頭を巡らし、嗚咽を止めようとする。
「あ…あれ? ……風が止んだ」
 美樹が言葉を選んで間誤付いていると桜井美遊がそう言った。しかし、言葉とは裏腹に激しい風は止むことなく吹き続けている。
「はぁ? 何言ってんだよ? 風、止んでなんかないぞ? どういう意味だよ? また言葉遊びか? そうなんだろ? 今度はどんな話だよ? なぁ、教え――」
 桜井美遊は何も答えない。瞬きもしない。
「………?」
 美樹が桜井美遊の変化に気づいた。体から力が抜けていて……、そして、呼吸が止まっていた。
「……あ…、ああぁ…、あぁ」
 美樹の口から小さな音が漏れた。そして美樹からもふっと力が抜けた。桜井美遊を落としてしまいそうになり、慌てて身体に力を込めた。
「……嘘だろ? 動けよ! 瞬きしろよ!! 息しろよぉ!」
 桜井美遊を必死に抱きしめ、揺さぶった。桜井美遊は温度を失っていくだけだった。
「頼むよ、こんなの駄目だよ。駄目に決まってるじゃないか……」
桜井は昨日までは狂っていたんだ。だけど、それが治ってしまった途端何年か分の、何千回分の苦しさや、辛さを正常な脳みそで考えなければならなくなってしまったのだ。だからこんな羽目になって……。俺が優しくしなければきっとこんなことにはならなった。俺が追わなければ、償おうだなんて思わなければ、抱かなければ、守るって言わなければ……。
「……ごめんなぁ。桜井、俺はなんて奴なんだろう……、全部何もかも自分のためだったんだよ……」
そうだ、そうなんだ。……俺が殺したんだ。俺のちんけな優しさが桜井を殺してしまったんだ。
 美樹は悔しくて、情けなくて、悲しすぎて、許せなくて、桜井美遊を力強く抱きしめた。美樹のシャツもズボンも血だらけになってしまっている。
「……他にどうすればよかった? 何が出来たんだ、どうしたらよかったんだよ……? 教えてくれよ、そしたら初めからやり直すからさぁ、教えてくれよ、どうしたらよかったんだよ?」
 激しく吹く風はそんな情けない言葉を容赦なく吹き飛ばした。
風の中にいる美樹は言葉にもすがれなくなった。
美樹は桜井美遊を抱きしめながら、ただ静かに泣くことしかできなかった。

“……誰か俺を殺してくれよ。桜井よりも酷い目に合わせて出来るだけ残酷な方法で殺してよ……”

 その日の夜、記録的な台風が美樹の町に直撃した。激しい雨が川を氾濫させ、暴風が吹き荒れ、木々や自転車、青いビニールシートのテントなど、何もかもをなぎ倒した。
 翌日、台風が過ぎ去った町の景色は今までと全く変わってしまった。
 台風による死者は幸運にも0名だった。


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