風に吹かれて消えちまう



幕後


町並みが凍りつくような二月のある日。
枯れ葉を巻き込んで吹きすさぶ空っ風の中、トタン屋根のみすぼらしい小さな家の前で泣いていた美樹の涙がようやく止まった。
無論、本当の意味で美樹の涙が止まったというわけではなく、流れる涙が一時止まったということに過ぎないが。なにせ、あの日から美樹は泣き続けているのだから。
 美樹は立ち上がりトタン屋根のみすぼらしい家を睨み直した。そして、ゆっくりとだが確かな足取りで前へと進む。目の前に表札がある。プラスチックで出来たそれにはマジックで“桜井泰三”そしてその横に宏美と書かれていた。
 瞬時に悟った。再婚しているのだろうということを。
玄関まで歩く。備え付けのチャイムを押した。“ぴんぽーん”と間の抜けた音が家の中で響くのが薄っすら聞こえてくる。
「――はい?」
 その声と同時にドアが開いた。中から出てきたのは白髪交じりの初老の男だった。桜井美遊の父親、泰三だ。
「はいなんでしょう?」
 美樹が見た当時とはどこか違っている。随分と小さい印象を受けた。赤い顔もしていない。なにより一番違うのは目だろう。目が優しくなっている。年老いたためか、美遊の死のせいだろうか、それはわからない。ともかく、美樹の目には、気の毒な老人、そんな風に映った。……だからといってこれからすることが変わるはずもなかった。
「あ、おめでとうございます。なんでも再婚したそうで?」
美樹はあからさまに作った笑顔で言った。
「……はぁ、まぁ、ありがとうございます。ところであなたは誰ですか?」
 怪訝そうな顔をして聞いてくる。
「私? 私ですか? 私は……、いったい誰なんでしょうね? それよりも今、あなた幸せですか?」
 その笑顔のまま聞いた。
「はぁ? あぁ……、はい、そりゃあ、この年で再婚できましたしね」
 ちょっと照れながらも、なんだこいつ? というような目で見てくる。美樹は相変わらず笑顔だ。
“笑っていない笑顔”だ。
「そうですか……、それは――」
 美樹の顔つきが急激に変わった。
「――許せねぇな!」
 美樹は拳を力いっぱい握り、振りかぶって桜井泰三の鼻っ柱を打ち抜いた。拳に鼻骨が折れた感触が伝わる。美樹はそのことなんかでは全く怯まずもんどりうって倒れるその男に馬乗りになり更に殴りつけた。
「――くそっ、くそっ」
 悔しさを体中からひり出すように何度も何度も拳をその顔に打ちつけた。右の拳も、左の拳も関係なく打ち付けた。
 そのうちに泰三が一切の抵抗をやめた。そこで美樹も止まった。
「……おい、なんか言うことないか?」
 激しい息切れの合間にもかかわらずその言葉は今日の風のように冷たく容赦がなかった。
「……た、助けてくれ。あんた誰だよ? 俺がいったい何をしたんだ? 助けてくれよ」
 ぐちゃぐちゃになった顔でそう言った。
「……お前はそう言われてやめたのか?」
「なんだよ、何を言ってるんだ? いったいなんなんだよ? やめてくれよ……、殺さないで……」
 美樹はその言葉に向かってふ〜っと息を吹きかけた。
「知ってるか? 言葉はな、風に吹かれて消えちまうんだとよ」
 そう言って最後の一発を顔のど真ん中に打ち下ろした。
 死んだのか、それとも気絶したのか、ともかく動かなくなったその男を見て美樹は立ち上がりゆっくりとその家から出て行った。
 そのままどこに向かうでもなくテクテクと、フラフラと、トボトボと歩いた。

気付くと美樹はあの川原に辿り着いていた。ビニールシートがとっくになくなったそこに座り込んだ。布団の合った場所。桜井美遊とセックスをした場所。人生初めてのセックスをした場所。人生最後のセックスをした場所。桜井美遊の顔を思い浮かべる。子供の頃の顔、笑っていない笑顔、無垢で綺麗で可愛らしい笑顔、……そして最後の顔。
「……桜井、俺はお前にどうしてやったらよかったんだ……」
 呟いた。その答えのない問いはこれからもずっと美樹を苦しめてはなすことはないのかもしれない。桜井美遊の最後の言葉が頭に響いてきた。
“愛してるとかって言ってもらっていい? あと、名前で呼んで欲しいな私その言葉聞いて終わりたいな……”
 あの時どうして咄嗟に言ってあげなかったんだろうか、嘘を吐くことが悪いことなのか? 違うだろ、相手を無責任に傷つけることが悪いんだ。嘘くらい吐いてやったっていいだろ……。桜井が死ぬのはわかってたじゃないか!
美樹は頭を抱えた。
「美遊……、愛してるよ」
 美樹は本気で嘘を言った。
「……愛してる」
 しかし、風がぴゅ〜と吹いてその言葉を消し去った。
「お前を心から愛したかった……、愛してやりたかった」
 やはり風が吹いてしまう。……頭にきた。
「美遊!! 美遊!!」
思わず叫んでしまう。……ちくしょう、風なんかに負けてたまるか……、吹き飛ばされてたまるか! 負けてたまるか!! 美樹は立ち上がりさらに叫んだ。
「美遊!! 俺は、俺は、お前を愛したかったよ!! ちくしょう!!!!」
 喉が潰れるくらい大きな声で叫んだ。
“思い出すことがないくらい忘れないと変われないの”
この言葉が頭の中に入り込んできた。
「ふざけんな!! 忘れてたまるか!! 忘れてたまるか!!」
 美樹は叫び続けた。喉に痛みが走り、声が出なくなっても叫び続けた。
「美遊! お前は馬鹿だ! 人は変われるに決まってるだろ! 死ぬ必要なんてひとつもなかったじゃないか!」
 風は吹きすさぶ。その風に向かって叫び続けた。
「俺は忘れて変わるんじゃなくて、記憶したまま乗り越えてやるぞ! 美遊! 見てろ、俺は乗り越えてやるぞ! 変わってやる! 何もかも引きずりながら変わってやるんだ!! 美遊! もう一度言ってやる。お前は馬鹿だ! 言葉が消えるか! 思いが消えるか!」
風に飛ばされないようにと必死で叫ぶ。次第に声は掠れてくる。それでも叫び続けた。喉から血を噴き出すまで叫び続けた。
「聞こえるか! 美遊! 俺は叫び続けてやる! これから一生叫び続けてやる。そうだ。風に吹かれても消えない言葉だ。俺はそれを一生叫ぶんだ! 美―――――」
声が出なくなった。いくら叫ぼうと思ってもそれが音になって体の外に出なくなった。声帯が潰れたのだ。
それでも叫んだ。音の一切ない静寂の叫び声をあげ続けた。
空の色が変わるくらいの時間が流れた。
美樹はその場にゆらりと倒れた。
美樹の声がなくなったそこには音はなかった。
いつしか風は止んでいた。
美樹の頬を涙が一筋伝って地面に染み込んだ。
「………乗り越えたいよ」
 隙間風のような声だった。




――了――
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