風に吹かれて消えちまう






純次郎





幕前




町並みが凍りつくような二月のある日。
枯れ葉を巻き込んで吹きすさぶ空っ風。
その風は皮膚を切り裂いてしまうかというほど冷たく、鋭く、容赦がない。
街角、そして路地裏。いくつかの家々が立ち並んでいる。真っ白な三階建ての家や、三角屋根の小洒落た家。その中で一際目を引く一軒の家があった。
風景にあまりにも溶け込まないトタン屋根のみすぼらしい一軒の小さな家。
そのトタン屋根の家の前に男が一人立っていた。
風を遮るものは何一つない道端。当然容赦のない風はその男に激しく吹きつけている。それでも男はピクリとも動かない。寒そうな素振りもない。しかし、その佇まいはひどく力なかった。
その男、武藤美樹がこの家の前に訪れたのは実に十年ぶりになる。しかし、十年ぶりに訪れたといっても、ここに来たことは今までで一度だけで、しかも中にはただの一度も入ったことなんてなかった。
それでも、美樹はもう小一時間もその場から離れずに、その家全体をジッと睨むように見つめていた。その視線は一瞬たりとも離れようとしない。視線はトタン屋根の家にべとりと張り付いていた。
憎悪。悲しみ。悔しさ。後悔。どんな意味を持った視線だろうか。詳しい事まではその表情からは読み取ることは出来ない。しかし、それが“負”の意味合いを持っていることだけは誰が見ても容易に想像がつくだろう。
ともかく、美樹はそれだけこの家に執着があるのだ。もちろん、家自体に執着があるわけではなく、その家と自分にまつわる人や過去への執着だ。
さらに風が美樹に吹きつける。傍から見ると美樹はその風に切り刻まれているようだった。しかし、相変わらず動かずジッと睨み立っている。
どれくらいの時間が経っただろうか、ようやくその家全体を捕らえて、放さなかった視線が、具体的なものへと移動し始めた。
風でガタガタ鳴る窓。
ペンキの剥げかけた薄緑色の玄関。
その役割を果たしていないあまりにもボロボロになった門。
そして、その脇にだらしなくぶら下がっている表札代わりのプラスチックのプレート。
そこでピタリと止まった。
美樹に変化が現れた。目は薄っすらと滲み、表情があからさまに崩れた。
「――さ、桜井……」
 美樹は書いてあるそこの家主だろう苗字を呟いた。その言葉を言うのも十年ぶりだった。
この十年間、口が裂けてもその言葉を発することは出来なかった。
「……桜井ぃ」
 二度目のその言葉は湿ったものに変わった。
「さ、桜井ぃ……」 
三度目のこの言葉を震えた声で吐き出すと美樹は後ろから頭を何か大きな鈍器で殴られたかのようにがくりと崩れ落ち、膝を付いた。
「――み…ゆ…」
 美樹は桜井美遊を人生で始めて名前で呼んだ。この十年間、胸が張り裂けるほど叫びたい名前だった。そして一度として叫べなかった、声にすることすら叶わなかった名前だった。
「……美遊ぅ」
もう一度その名を呼んだその刹那、強く、鋭く、冷たく、そして容赦のない風が吹き抜けた。そのため、その声は音とならずに吹き飛ばされ、瞬く間に消え去ってしまう。

……言葉が風に吹かれて消えてしまった。

美樹は十年前の桜井美遊とのある会話を鮮明でない映像で思い出した。細部まで覚えていないためか、頭に浮かんだその映像はざらつき、荒れていた。

それは夕暮れ近くの放課後の教室でのことだった。教室は西日でオレンジ色に染まり、西日によって出来た窓や冊子、そして美樹や桜井美遊の黒い影が長く伸びていた。
そんなオレンジ色と黒色の二色の教室の中で十年前の美樹は高校の制服姿で当時の自分の席に座っていた。
美樹は数分前まで机の上のプリントに印刷された数学の問題に必死で取り組んでいたが、手も足も出なかったため、もうどこか投げやりだった。
美樹の隣の席に桜井美遊が座っていた。
二人きりだった。
「はぁ〜わけわかんねぇ……」
美樹がため息を吐き、顔を机に突っ伏すと桜井美遊が声を掛けてきた。
「ねぇ、美樹君、知ってる?」
「ん? 何を?」
 顔を上げ、ペンを放り投げるように机に置いてから、美樹は桜井美遊のほうに顔を向ける。
「これは内緒の話だよ? あのね、言葉ってね、風に吹かれて消えちゃうの。飛んでって消えちゃうのよ」
「はぁ? なんの話だよ?」
 美樹は長い間机に向かって固まっていた体をグッと伸ばした。
「あ、美樹君、今、言葉なんて別に飛んでっちゃってもいいって思ったでしょう?」
「え、別に思ってなけど……?」
「うん。確かに美樹君の言うとおり、言葉なんてくだらないからね、美樹君がそう思うのもわかるわ、うん、よくわかるわ」
 桜井美遊は一人で、うんうんと頷いた。
「あのさ、だから別にそんなこと思ってないって――」
 美樹を相手にもしない桜井美遊はその言葉を遮るように続ける。
「――うん、言葉がいったい何だっていうの! って思うことよくあるもんね。私だってそう思うこともあるもの。でもね、思いや願いを乗せた大切な言葉ってあるでしょ? そういうのもね、風に吹かれて消えちゃうの。そうするとね、その思いや願いも風に吹かれて言葉と一緒に消えちゃうの。しかもね、その思いや願いの強さとか、切実さとか、重要性とか、そんなものなんて丸っきり関係なく消えちゃうの。それってとっても悲しいと思わない? 残念でならなくない?」
 桜井美遊は美樹の目を真っ直ぐ見つめてきた。美樹は少し困ってしまい、
「……う〜んと、なんか、よくわかんねぇけど、まぁ、そうかもな? ていうか、この問題もさっぱりわかんねぇや」
 なんてプリントをヒラヒラと指先で持ち上げ、おどけたような顔をして「ははは」と軽く笑った。
 それを見て美遊も「ふふふ」と小さく笑った。
夕日に照らされて出来た長く伸びた二人の影も小さく笑っていた。

 そこで美樹の頭の中で展開されていた、ざらついた映像は、イカれてしまったテレビのように、なんの前触れもなく突然ブツリと途切れた。
 その衝撃からか、美樹はその映像が途切れると同時に、前のめりに倒れこみ、額を音がするほど強くコンクリートの道路に打ち付けた。そのまま顔を地面に突っ伏し泣き始めた。
しくしくと泣いた。
切々と泣いた。
「あなた、どうかしたの?」
 たまたま通りがかった中年の主婦がその背中に声をかけてきた。美樹はそれに全く答えず泣き続ける。その声が美樹に聞こえているかも定かではない。
 その様子を見かねた主婦が善意で美樹を抱え起こそうと肩に手を置くと、美樹はそれを乱暴に振りほどいた。
「――ほっといてくれよ!!」
叫び声だった。そしてまたもや地面に顔を突っ伏し再び泣いた。
「………頼むから、頼むから俺なんてほっといてくれ……」
 その主婦はバツが悪そうに「いやねぇ、まったく」なんて言いながら美樹の元から足早に去っていった。
 一人きりで美樹は泣き続けた。

 ――泣き続けた。

 風は相変わらず吹きすさび、美樹を切り裂く。
そして、切り裂くと同時にその悲痛な泣き声を、それに秘められた思いや願いを、吹き飛ばし、消し去っている。
 やるせないのはその風が吹き飛ばし、消し去るのは、音や思いだけで、美樹の奥の奥に染み付いている十年前のみすぼらしい残酷な恋の思い出と、いつまでも内臓を掻き毟る悲しみを一向に連れ去ってくれないことだろう。
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