「いいからとりあえず後ろ乗れよ」
そう言われて私は勇一の自転車の後ろに乗りこんだ。所々剥げているボロいママチャリ。なんか勇一らしい。
「ねぇ、どこ行くの?」
さっきから何度もそう聞いているのだけど、勇一は内緒だとか秘密だとかふざけて言うばかりで結局どこに向かっているのだか分からないまま、私を乗せた自転車は走り出してしまった。
自転車を漕ぐ勇一の背中を見ながら考えた。
……これで良いのだろうか。私は今、コー君と付き合っている。だけど勇一のことが好きだ。そして、ことあるごとに勇一に相談を持ちかけている。
考えるまでもないな、……良いわけがない。
勇一に相談する理由は他に相談できる男友達がいないから、なんて言ってるけど、本当はきっとただ勇一に会いたいから……、それだけなんだろうと思う。別に勇一に同情されたり、優しくされたりしたいわけではない。何かを期待しているわけでもない。でも、全く期待がないと言い切ることができない自分がいる。コー君をないがしろに出来ない自分もいる。
勇一とコー君は友達で私は勇一が好きなのに私は今、コー君の彼女だ。考えれば考えるほど頭が痛くなる。
自転車はどこに向かっているのか相変わらずわからないけど、すいすいと走る。いっそ、このまま二人でどこか遠くに行けたらどんなにいいか……、知っている人が誰もいないところに連れてってくれたらどんなに気が楽になるか……。
「――でも自転車じゃ行けても二駅分くらいが関の山だなぁ」
自然に小さな声でそう言う自分がいた。なんか笑えた。
「何笑ってんだよ? さっきまであんな泣いてたのによ」
勇一が声をかけてきた。ちょっとぶっきらぼうな言葉が逆に優しく感じる。
「いいじゃん別に! 私は泣いたり笑ったり怒ったりして生きてるの!」
そう言うと勇一は「それはよかったな」と呆れた調子で言った。なんだか私はもう元気が出ている。勇一と一緒に遊びに行く事が楽しくなってきている。
私は単純な女だ。
そのあと三十分ほど走って自転車は止まった。
止まった場所は私が知っているどころか、毎日、通っている場所だった。そう、輪条高校、そこだった。
時間はもう十七時を過ぎていて、空は夕闇が包むその寸前の何色とも言い表せない浮ついた色をしている。
「何ここ?」
そんな空の下、勇一に当然の疑問をぶつけた。
「ここ? 知らねぇのか? 輪条高校だよ。真由はここ初めてだっけ? 俺ここに通ってんだよ」
校門の右側にデカデカとそう書かれたプレートを指さしながら振り返った。とぼけた顔をしている。
「違くてさ、なんで輪条高校に来たのかって聞いてんの! 私だってここの生徒なんだからね」
「そうだっけか? まぁいいからいいから」
勇一はそう言うとまたペダルを漕ぎ出し、学校の裏手に回った。そこで自転車を止め、私を下ろして、自分も下りた。そして“裏口”と呼ばれる私たちがたまに学校を抜け出すときに使う金網の破れたところから校内に入っていった。しかも私には何も言わずに。
「ま、待ってよ」
小走りでその背中を追った。
「うん、ちょうどいい時間帯だな」
追いつくと勇一は携帯電話を開いて時間を確認していた。
「ねぇ、何する気なの?」
「よし、入るぞ」
 また私を無視してスタスタと校舎内に入っていってしまう。
「ちょ、何? なんで学校の中に入るの?」
 勇一は答えない。私は仕方なく後を追い学校の中に入って後を追った、が、いきなり止まった勇一の背中にぶつかってしまった。
「痛えな」
勇一がちょっと笑って振り返った。
「いきなり止まらないでよ!」
 私は鼻を打って涙目になってしまう。痛いなもう……。
「はぁ? エレベーターの前は普通止まるだろ?」
そう言いながら勇一は“上る”のボタンを押した。
「何? これって先生専用のエレベーターでしょ?」
「あぁ、さすが私立だよな。エレベーターなんて付いてるんだもんな」
「でも、ここって生徒は使っちゃいけないんじゃのないの?」
「大丈夫だよ、この時間なら部活の顧問以外は帰ってるから」
「ふうん、でもどこに行くの?」
「お、エレベーター来たぞ」
またも無視された私は“もうっ”と思ったが、そんなぶっきらぼうなところにも惹かれていることに気付いた。こういうところはコー君にはない。
……そう思った瞬間、知らず知らずのうちに勇一とコー君とを比べている自分を知ってしまった。自分がたまらなく嫌になる。
「真由! 何ぼーっとしてんだよ?」
勇一はすでにエレベーターの中にいて、ドアが閉まらないように手で押さえている。勇一の声で我に帰った私は急いでエレベーターに乗り込んだ。
最上階までエレベーターは止まらずに上っていき、そこで勇一は当然のように降りた。
「到着?」
 私ももちろん後を追う。
「あともうちょっと」
得意げな顔で勇一はエレベーター乗り場の裏に回り、手招きをして私を呼ぶ。いったい何があるんだろう……?
勇一のすぐ側まで行くと、目の前に柵があった。その奥には屋上へと続く階段がある。こんなところは初めて見た。
「屋上に行くの?」
「そういうこと、ほら、うちの学校って屋上は進入禁止だろ? でも教師専用のエレベーター乗り場からなら、屋上に続く階段に続いてるってわけだよ」
勇一は柵の上にひょいっと上った。
そういえば、うちの学校は四階建てだけど、四階のエレベーターホールは防火扉が閉まっていて入る事は出来いようにされていた。
「すごいね勇一、いったいなんでこんなとこ発見したの?」
 勇一を見上げて話しかける。
「ん? 一年の頃さ、慎ちゃんと、安全にタバコ吸えるところ探してて、試行錯誤の末、ここを発見したんだよ。ただね、実際はエレベーターに乗る事すらバレたら怒られるから危なくてめったに来ないんだけどな。はいよ!」
柵の上で中腰の姿勢の勇一が手を差し出してきた。勇一の顔はにっこりと何の嫌味もない子供みたいな顔だった。タバコを吸うところを必死になって探したりするちょっと可愛らしい悪ガキのところや、元気のない私を何も言わずにこんなとこに連れてきてくれたりする優しいところ、私は勇一からいいところを見つける事が好きみたいだ。思わず顔が赤くなってきてしまう。
「おい、はやくしろって、ほら」
勇一の手がさらにぐぐっと伸びてきた。
なぜだか急に恥ずかしくなった。そういえば私は勇一の手を握ったことなんてなかった。
「真由、お前ね、俺の話聞いてるのか? 早くしろっての」
「あ、ごめんごめん」
 心の中を悟られないように軽く返事をして勇一の手を掴んだ。予想以上に男っぽい手。そんな手を握るとグッと柵の上まで引き上げられた。
その力強さと引き上げられるその瞬間の浮遊感とで私はダメになった。
“……好き”
全身でそう思った。
 ……なぜ? こんなことで、さっきまで考えていたコー君のことなんか全部吹っ飛んでしまった。
……どうして? こんな小さな弾みで私の脳と体が恋愛モード一色に染まってしまった。
柵の上に引き上げられた瞬間私は勇一に抱きついてしまった。いや、気付いたら抱きついていたっていう表現のが正しいかもしれない。
勇一の体温を直に感じる。自分の気持ちが、行動が、なにもかもすべて制御できなくなってしまっている。勇一を抱きしめる腕に力が勝手に篭る。
さっき止まったはずの涙がまた出てきた。
……だって私は勇一が大好きなんだ。

□□□□

柵の上で真由にいきなり抱きつかれ、バランスを崩してしまった。
“ひょえ〜”なんて情けない悲鳴を上げながら屋上へと続く階段側へと俺は落ちてしまう。落差二メートル+真由の重みで背中に受けた衝撃は相当なものだ。はっきり言ってここまでの痛みは生まれて初めてだ。処女を喪失したときよりも、出産したときよりも痛い……ってそんな経験ないけど、それだけの痛みだってことだ。きっと背骨が真っ二つに折れたに違いない。
「……うっ」
――なんだ? 声が出ないぞ、いや、それどころか息すら出来ない。息が詰まるってのはこれのことか、こんなことも初めてだ。……これは焦る。本当に喉の手前にゴムかなんかの膜が出来たかのように空気がその先へ行かない。死んじゃう死んじゃう!! 息をしなきゃ。
……あれ、お婆ちゃん?
あぁ、ふざけてる場合じゃない。息を……、そう息をしないと。頑張れ俺!!
「――いってーな!」
やっとのことで吹き返した最初の一息と共に怒鳴った。それにしても息が出来ないという事がこんなに恐ろしいとは……。
「………」
真由からはなんの返答もない。おかしい。体の上にいる真由を見るとその肩が震えていた。漏れ聞こえる小さな嗚咽ですぐに泣いているということに気付いた。
「何? 何だよ? なんでまた泣いてんのよ? どっか打ったのか?」
背中の痛みを気にしつつも慌ててその理由を聞く。
真由は俺が心底、心配していることなんて全く意に介さず質問に答えない。
いったいなんだってんだ? 本当にどっか打ったのかな……。ん? そういや、なんで真由が俺に抱きついてんだ? そう思った瞬間、すっと真由の腕が俺の首の周りに伸びてきた。そして、答えの代わりと言わんばかりに真由の腕が俺の首を回り強く抱きしめてきた。
これはいったいどういう意味なんだ……?
「ま、真由? どうしたんだよ?」
その質問から少し間を空けて真由が肩を震わせながら震えた声を出した。
「……勇一?」
涙に濡れた小さな声だった。
「なんだよ?」
「……好きだよ」
 さらに震えた小さな声。真由が何を言ったのかを理解するまでに数秒掛かった。
「――はぁ? 何言ってんだよ?」
「……好きなの」
真由の声は風の音でかき消されてしまいそうなくらい小さくなった。もはや聞き取るのも一苦労だ。
「だからさ、それが何かって聞いてるんだよ?」
「私は勇一が好きなの!! 大好きなの!!」
真由の声が音量のノブを急激に捻ったかのように、いきなりデカくなった。耳がキンキンとする。そして大きな声で鳴き始めた。今日二度目だ。
「ちょ、ちょっと待てって」
「やだ、待たない!!」
真由はそう言ってさらにぎゅっと腕に力を入れてくる。薄いTシャツだけを着た柔らかい体がぴったりと触れている。髪の毛から女の子特有のいい匂いがする。……この状況ではさすがの俺も……なにがさすがなのかわからないが、とにかく、この状況ではちょっと冷静ではいられなくなりそうだ。それにしても未だに掴めない。今俺はどういう状況に置かれているんだろうか? とりあえず当初の目的地である屋上まで真由を連れて行こう。話はそれからだ。
「真由? いったいどうしたんだよ?」
タマゴボーロの味くらい優しく言った。
「……だって好きなんだもん」
 真由はそう答えた。俺はそんなこと聞いちゃいない。
「いや、だから――」
「好きなんだもん!!」
話にならない。……こりゃしばらくは無理だな。
「わかったから、とりあえず立とう。な?」
言う事を聞かない真由をなだめつつ、まず寝転がった体勢から真由と一緒に上半身だけはなんとか立て直した。正面座位の体勢。……ダメだ、俺はいやらしい想像を頭を振って追い払った。背中にピリッとした痛みが走った。だけどどうやら心配していた背骨は折れてはいなそうだ。よかったよかった。
短い息をふっとはき、俺の膝に座る真由に言った。
「真由、なんだかよくわかんないけど、とりあえず落ち着きなさい」
真由は俺の言葉に頷いた。しかし頷きはしたが涙と嗚咽が止まらないようだ。うっうっと泣き止みたくても泣き止むことのできない子供のように涙を止めようと試み、一瞬止まることはあるがまたすぐに涙が出て、うっうっとなってしまっている。
そんな膝の上で泣き止まない真由を見ながら考えた。……真由は俺のことが好きだと言っていた。やっぱりなんだかよくわからないが、どっちにしろ、とりあえず色々考えるのは真由が落ち着くまで少し待とう。
「なんかよくわかんないけど泣かないの、な?」
そう言って真由を落ち着かせようとその頭をぽんぽんと優しく叩いた。……逆効果だった。頭をぽんぽんとした瞬間に真由はさらに大きな声で泣き抱きついてきたんだ。
「真由! 声がデカいよ。俺ら侵入禁止の屋上に入るんだって、バレたらまずいんだよ!」
しかし真由はもう子供そのものみたいにイヤイヤをするだけだ。
「ったく、しょうがねぇな……」
俺は真由を抱き抱え、そのまま立ち上がり、真由を持ち上げて屋上まで続く階段を上っていった。その間も真由は必死で俺に抱きついている。端から見たらひどく滑稽な光景だろう。お姫様抱っことかならそれなりに絵になるとは思うのだが、この格好じゃなぁ……。なんせプロレスで言うところのフロントスープレックスの格好だ。

息を切らしながらようやく屋上にたどり着いた。少し階段を登ったってだけにも関わらず酷く時間が掛かってしまった。真由はまだ俺の首に腕を絡めて、足をプラプラとさせ、ひっついたまんまだ。……多分もう泣いてはいないと思う。
「――はぁ……、はい、着きました。降りて下さい」
息切れとため息の間にそう言ったが真由まだ離れない。
とりあえず真由を離さないと話にならないな、と思い、なんとか注意を逸らそうと試みた。
「なぁ、真由は屋上来た事ないだろ? ここ結構いいんだぜ?」
うちの学校の屋上は少し変わっている。俺も慎ちゃんと始めてここに来たときは驚いたもんだ。まず、他と違う大きな特徴はちょっとしたスポーツなら出来るくらいの広さだ。横長のその横軸は相当長い。しかも、異様に高い薄い緑色の金網のフェンスが周りをぐるりと取り囲んでいるんだ。ちなみに今俺たちのいる屋上への入り口はほぼ中心に位置している。それにしても、いったいなんでこんな広い屋上を出入り禁止にしているのだろうか。少し不思議だ。
「ほら、すげー広いし、楽しそうだろ?」
……しかし、真由は反応せず俺に力いっぱい引っ付いているだけだ。屋上に興味を示さないってことは残る手は……、
「真由、こっから見る景色超きれいだぞ?」
そう、景色しかないだろう。俺は馬鹿だから“女の子は景色が大好き”なんてことが頭の中に当然のようにインプットされている。
ぴくっと真由が動いた。そしてゆっくりと振り返り、
「ほんとだ綺麗だね」
 後頭部で言った。ほら、あながち間違っていないだろ? 女の子は景色が好きなんだ。
「だろ? ここな、住宅街だからホントはたいして綺麗じゃないんだけどな、空が昼間と夕日の二層になってるこの一瞬だけはメチャクチャ綺麗なんだよな」
「うん、ホント超綺麗だね!!」
真由はさっきまで泣いていたのが嘘みたいにはしゃいだ声を出した。全く現金なやつだな。でも、ちょっとほっとしたってのが本音だ。落ち着いてくれりゃなんでもいい。
「ねぇ勇一はさ、ここによく女の子連れてくるの? ほら、亜理紗と一年のときちょっと付き合ってたでしょ? 亜理紗も連れてきた?」
真由が俺の顔を見て聞いてくる。真由がひっついているため顔と顔の距離は数センチしかない。……ちょっとだけ焦ってしまう。
「え? そういや慎ちゃんとしか来た事ないな」
「じゃ私が初めてなんだ!! やった!」
真由が数センチの距離でニコッと笑った。泣きすぎで目の下がぷくっと腫れている真由の目が小さくなった。薄い唇の両端が均等に上がっている。
かわいいな、素直に思った。
……不覚にも俺は揺らいでしまった。
「真由……?」
「何?」
真由がきょとんとした表情で見つめ返した。その無防備な顔が俺の理性をかき乱した。
……またもや揺らぐ。
真由が不思議そうに首をコテンと傾けた。
……ダメだった。
唇に柔らかな感触が伝わってきた。
……俺からのキスだった。
その瞬間、時間が、そして世界が、……俺を取り巻く全てがピタリと動く事を忘れてしまった。

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