今日も来てしまった。真由と別れたこの池のある公園に。
あの日、真由と別れた日から俺は、毎日この公園に来て、あの柵に座っては無意味な考えを頭に巡らせている。“別れを受け入れなければよかった、もっと必死に真由を引き止めればよかった”なんてそんなことをグルグルと。
……違うんだ。わかってるんだ。そんなことを考えたところで、この場所に来たところで、時間が戻るわけないし、あの別れがなかったことになんてなるはずだってない……。わかってるんだよ。
……でも、涙が止まらないんだ。そんな希望にすがりでもしないとどうしようもないんだ。この涙を止める全うな術なんか何一つ思い浮かばない。……他に何が出来るというんだ? いったい、どうすれば涙が止まるんだよ……。
そんな方法はないのかもしれない。あるはずがない、だって俺は一人なんだ。誰一人、俺のことを思ってくれる奴なんていないやしないんだ。方法なんてないんだ。
……いや、……ある。……真由だ。真由が傍にいてくれたら、真由が笑顔で俺を見つめてくれたら、俺を抱きしめてくれたら……、そうなんだ、真由がいてくれないと、涙が止まらないんだ。
でも、もういない。……ダメだ。このままじゃダメだ。変わるんだ。変わろう。強くなろう。強く変わった俺にならなければ……。そう、しっかりとした男になって真由を、真由の心をまた俺に向けるんだ。真由ともう一度……。頑張ろう。努力、それしかないんだ。勇一にだって負けないくらい強い男になって、正々堂々と勝負して真由との日々を取り戻すんだ。抱きしめてもらうのではなくて、真由を抱きしめてあげられる男になるんだ。
そのためには俺は何をすればいいのか、それを考えよう。
ベンチから立ち上がった。
とりあえず気持ちを前向きさせなければ、ネガティブな思考がきっと真由を遠ざけてしまったんだ。
歩き出した。
ふと空を見上げた。
丸い夕日が俺を照らしていた。
周りを見渡した。
誰もいなかった。
何もなかった。
俺の影だけがオレンジ色の光に照らされ、長く伸びていた。
その影はやけに細く、酷く頼りなかった。
その影を眺めていると急激な勢いで“孤独”が襲ってきた。真っ黒な孤独だった。
「……あぁ」
 小さな声が漏れた。俺の脳はこんな指令を出していないはずだ。
「あぁぁ……」
 また声が漏れだす。おかしくなってしまいそうだ。なんとか押さえ込もうと思い、頭を両手で抱えてみた。
……何も変わらなかった。足に力が入らず、膝を地面についてしまう。

 寂しい…、淋しい…、寂しい…、淋しい、寂しい、淋しい、寂しい、淋しい…………。

「あああああああああああああああああ!!!!!!」
 大声で叫んでいた。
無理だ! 前向きだなんて……、真由がいないのに前向きになるだなんて無理なんだ。真由が傍にいてくれないと前向きにだなんてなれやしない。
『……お前はどこまでも…、果てなく一人だ』
耳元で誰かに囁かれたような気がした。慌てて振り返った。細く伸びた真っ黒の影の口元がヘラヘラと俺をあざ笑っている。
あぁ、俺はどうかしてしまったのか……、嫌だ、嫌だ、一人は嫌だ……。嫌なんだ、嫌だよぉ。
頭の中に中学のころの誰とも話さない日々が浮かんでくる。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
あんな日々に戻るのは嫌だ。だからって真由がいないまま進むのはもっと嫌なんだ。勇一に相談しようにも、そんなことできるわけはない。勇一は真由の好きな人なんだ。
……昨日、勇一に言った事、本当は一つも心からの言葉ではない。嫌だったよ。真由が俺以外の誰かと付き合うだなんて嫌に決まってるだろ? 真由が俺以外の誰かを愛して、キスして、抱き合って、……セックスして、想像するだけで耐えられない。しかも、相手は俺の友達だ。嫌だよ……。
だけど、あんな状況ではああ言うしかないじゃないか……、他に何が言えた? 嫌だ嫌だと俺にわめき散らせって言うのか? 俺にそこまでさせたかったのか? もし俺がそうしたら何か変わったのか? 真由の気持ちが俺に戻ってきたというのか?
…………もしかしてあいつら、元々グルだったんじゃないか? 
……いや、そんなわけない。真由はそんな女じゃない。真由は優しいんだ。本当に優しいんだ。
勇一だって、いつでも俺に気を使ってくれて、優しくしてくれた。勇一は俺と違って、要領よくなんでもできて、友達も多くて、面倒見が良くて、八方美人で………、そして、

“嘘つきの卑怯者だ!!”

……そうだよ、勇一だ。勇一……。お前は汚い男だ。裏切り者じゃないか。どんなに綺麗な言葉を並べてもお前のやってる事は裏切りじゃないか。略奪じゃないか! 何が“俺も負けない”だ! 適当な事言いやがって! 俺がお前に相談なんかしてるときだって真由をずっと狙ってたんだろ……? 真由が可愛くて、優しいから。
……ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!!!
俺は何も悪い事してないじゃないか……。何一つ不誠実な事はしてないじゃないか……。他の女の子を微塵も気になった事すらないんだ。真由しか見てなかったんだ。
……汚いんだよ。みんな汚いんだ……。だから、綺麗で純粋でまっすぐに物事を考える俺がこんな目に合ってしまうんだ。世の中の汚いことのしわ寄せが俺のところに来るんだ。
大好きな真由に捨てられ、信頼していた勇一にぼろ雑巾のように裏切られた……。もう誰もいない……。
 あぁ、誰か、誰か俺の話を聞いてくれ……。優しく慰めてくれ……。
でも、俺にはそんな相手なんていない。俺は一人なんだ。俺は誰よりも、どこまでも一人なんだ。苦しすぎるよ。酷いよ。俺にだけ何もないんだ。
 …………“シューティングスターシンドローム”。
そうだ。一つだけある。俺が存在できる場所が……。
拠り所を一つ思い出した俺は走って帰った。ガンガンと鳴る頭を抑えて走った。出来るだけ早くそこに行くために。
 
部屋に入るとすぐにパソコンを立ち上げ、シューティングスターシンドロームのホームページを開いた。流れ星が流れる場面を見ると少し落ち着く事が出来た。俺はもうこれなしでは生きていけない。だって、もう真由は傍にいてくれないし、勇一は俺の中から消え去った。俺にはシューティングスターシンドロームしかないんだ。
クリックし、特定の人間しか入れないチャットルームに入った。
“現在このチャットには三人の参加者と一人の見ている人がいます”
そう文字が出てきた。
見ている人というのは俺のことだ。チャットルームでは今現在やりとりされている文字が次々と表示されは消えていく。

トーマ・そうですね、やはり決行は予定通りあの日で
おぐ・はい。やっぱり私的にも日付が変わるのは問題だと思いますね。ムーさんはどう思いますか?
ムー・はい。僕もおぐさんに賛成です。さすがにコーさんの決心のつく日にちもわからないのに待ってられませんよ。僕はすでに取り返しのつかないことを三度もしてしまっているし逃げ続けられるかどうか……。
トーマ・そうですよね。わかりました。コーさんには自分から説明しておきますね。

自分のことが話されている。俺はすぐにログインしチャットルームに入った。

コー・こんにちは
トーマ・こんにちはちょうど今コーさんの話してたところですよ
ムー・こんにちは
おぐ・コーさん、こんにちは!!
コー・お話少し拝見させていただきました。みなさんの言うとおりだと思います。
トーマ・はい。ですから残念ですけどコーさんは不参加という形で…。
コー・はい。でももしかしたらやっぱり当日参加するかもしれないけどいいですか?
トーマ・自分的にはオッケーですよ。みなさんはどう思います?
ムー・もちろんオッケーです!!
おぐ・私も!! むしろ是非(*^_^*)
トーマ・だそうですよ!!
コー・ありがとうございます。

 チャットをしているとようやく呼吸が出来るようになったような気がした。ここの人たちは俺と一緒だ。みんな純粋でそのために汚されてきた人たちだ。心が休まる。
そうだ、どうしようもなくなっても、シューティングスターシンドロームの仲間が居るんだ。……頑張ってみよう。もう少しだけ頑張ってみよう。そして、努力が実って真由とうまく行く事が出来たら俺は真由と生きていこう。
………だけどもしも、勇一にまた汚い手を使われて出し抜かれたら俺はシューティングスターシンドロームに参加しよう。もうそれしかない。

□□□□

何日か過ぎると俺たちは付き合うことに決めた。もちろん今度は俺から告白した。
「真由、付き合おう、俺のことを本当に好きならでかまわない、少しでも迷いがあるならフッてくれて結構だからな?」
「好きじゃなくて大好きなんだけど、ダメ?」
 真由はとびきりの笑顔でそう言った。
「もちろん問題ないよ。俺も大好きだからさ」
 そして“ちゅっ”ってな感じだ。そう、恥ずかしながら二人ともデレデレのトロトロだった。でも、一つちゃんと言わなきゃいけないことがあった。
「あとさ、真由、俺たちは本気で好き同士だから付き合っているってこと忘れないでくれな? 好きな人同士が一緒にいるんだ。これは自然なことだから。えと……、つまり、真由は決して誰も裏切ってないからな! ってこと。俺を信じてくれよ?」
真由は“ありがとう”なんて言ってくっついてきた。俺はずっと守っていくって約束した。我ながら恥ずかしい告白だと思うけど、本気の恋はきっと一生に一度。このくらいかっこつけても別にかまわないはず。真由は瞳を潤ませながら喜んで頷いてくれたし。
何もかもが思い通りに動いているような気になってくる。
 今だって俺は自分の部屋で真由と一緒。しかもお互い裸。さっき初めて自分の親に彼女として真由を紹介した。
「付き合ってどれくらい経つんだ?」
 親父の質問に俺は力なく「三日くらい……」そう答えた。親父の顔には「なんだそれ?」が油性マジックでしっかりと書いてあるかのように見えた。そんなことも俺は楽しかった。きっといつか思い出すと笑える俺たちのストーリーの一つになるはずだ。

「腹減ったな?」
 今日二度目のエッチを終えてゆったりと寝転びながら言った。
「うん、私もお腹空いたぁ」
 同じ格好で寝転んでいる真由が答える。
「んじゃ、なんか食いに行くか? 何食いたい?」
「うーんと、そうだねぇ、グミ!! グミ食べたい!!」
 大きな声でしかも笑顔。元気印から馬鹿に格上げだ。この辺の感覚にはちょっとついていけないところもあるけど、そんな意外性も楽しい。
「はい、真由は馬鹿。んじゃ俺スパゲッティ食いたいから、ファミレスな?」
「うん!!」
 グミのことはもう頭から消えているようだ……、まったく……超可愛い奴だ。
「よし、じゃ俺が服着せてやる! にひひ!」
 布団を剥ぎ取り真由の下着を手に取った。
「馬鹿! やだよ。自分で着る」
 こういうこと言うと途端に照れるところが可愛い。というか真由は可愛いんだ。目がね、すげー可愛いんだ。あとね、肌がすげー白いんだ。あとちょっと残念だけど胸も可愛いんだ。
「いいから、遠慮すんなって、俺が着せてやるか、でへへへ」
「やだ! 変態! 放して!」
 俺たちは笑いながら洋服を着せ合い、ファミレスへと向かった。

 ファミレスで向かい合いながら座って、俺はツナの入ったトマトスパゲティ、真由はカルボナーラを食べている。食べながらも真由は時々俺を見て「へへへっ」とちょっと照れくさそうに笑う。……超かわいい。みんな、このかわいい娘が俺の彼女だよ! 見てくれ! 遠慮するなよ、存分に俺をからかってくれてかまわないからさ!
……それにしても最近は本当に俺らしくない。なんてたってたまに赤ちゃん言葉使っちまうときすらある。はっきり言って気持ち悪くてしょうがないでちゅ……、ほらね? でもね、真由に可愛いだなんて言われると、ゆうちゃん、嬉しくなっちゃうんでちゅ、……いや、笑えないくらい気持ち悪いな、うん、やっぱりこれは治そう。
確かに真由が前に言っていた通り、恋愛すると生きるだの死ぬだのそんなくだらないことはどうでもよくなる、というより、人生が楽しくなるんだろう。
なんだか、体が恋愛体質に変わったような気がする。もう真由中毒。特効薬なし。

それから一週間、本当に楽しい日々が続いた。
真由とのデートやエッチもめちゃくちゃ楽しい。もちろん気持ちいいし。
全てが楽しくてしょうがない。学校に行ってもヘラヘラと、あまり話さなかった女子とまで恋の話で何度も盛り上がった。“愛し合って〜”の歌だって今は大好きだ。
その間に幸介からこんなメールがきた。
“あまり女子と仲良く話さないで欲しい、そういうのは誠実さがないような気がする。勇一の本気が見えないよ”
 もっと長かったが内容はこんな感じだった。
“あのときの約束を忘れたのか? お前は俺にどうして欲しいとか言うんじゃなくて自分を磨くんだろ? 俺は俺のやり方で真由を愛してるんだから”
 そう返したが、幸介からの返信はなかった。

□□□□

 勇一にメールをしたが、やっぱりあいつは誠実さのかけらもない奴だった。俺を散々傷つけたのにその俺に対してなんの配慮もない。あんな奴に真由を取られてしまうのか? 嫌だ。悔しい……、悔しすぎる。
またしても来てしまった真由と別れた公園の池の柵から立ち上がり歩き出した。
どこにも居たくないんだ。どこにも居場所なんてない……。俺は今世界で一番苦しいのだろう。俺みたいに純粋すぎるとこの世界は地獄だ。
……やはりシューティングスターシンドロームしかないのだろうか?
 そう思うとまっすぐ歩く事ができなくなった。フラフラと歩く俺の足跡はきっと迷路みたにグニャグニャに曲がっている事だろう。まっすぐなんて歩く事が出来るはずがないんだ。
 肩に何かがぶつかった。……どうだっていい。
「おい、テメーぶつかっといてなんの挨拶もなしか?」
 馬鹿が因縁つけてきやがった。俺に構うなよ。
「おい、逃げんじゃねぇよ!」
 肩を掴まれた。俺に触るなよ……。振り払った。
 もう一度掴まれた。今度は振り払えきれないくらい強く掴まれている。力任せに振り返らされた。
「放してくれ……」
「あれ? お前神田じゃねぇのか?」
 不意に名前を言われて顔を上げた。金髪の坊主だ。
「俺だよ、橋田だ。ほら勇一とお前仲良かったよな? あいつはほんと誰とでも仲良くなる奴だからな」
 笑顔で言ってくる。クラスの不良の橋田慎也、勇一とは仲が良かったと思う。
「俺は勇一なんかと仲良くないよ……、あんなクソ野郎と仲がいいはずないだろ?」
「おい、俺のダチのこと悪く言うなよ?」
 胸倉を掴まれた。
「だって……」
 涙が出てきた。
「お、おい、どうしたんだ?」
「……勇一は……俺の彼女を奪ったんだよ……、卑怯な手でさ……」
「……それ、マジか?」
 頷いた。胸倉を掴んでた手が離れた。
「詳しく話してみろよ」
「……勇一は俺から真由を奪ったんだ。勇一は――」
 吐き出すように全てを話した。誰かに聞いてもらいたかったんだ。
できるだけ自分を悲しくかわいそうに話した。誰かに優しい言葉をかけられたかったんだ。
できるだけ勇一を悪く話した。誰かに勇一を罵倒して欲しかったんだ。
橋田君は優しかった。全部信じてくれて、俺が勇一に話しつけてやる、なんて言ってくれた。
「……あいつそんな奴になっちまったのか?」
 橋田君は拳を握り締めていた。わかりやすい性格をしているみたいだ。
「……あいつ汚いでしょ?」
 確かめるように聞いた。
「あぁ、許せねぇな……」
 橋田君は俺の味方で、つまり勇一の敵になってくれた。勇一の友達の橋田君が。
少しだけ気持ちが晴れたような気がした。

□□□□
 
 いつものように“喫煙所”で朝の一服を終え、教室に向かう。実は今日、俺の家に真由が泊まって一緒に登校したんだ。気分は最高。だってさ、寝起きの真由ったらすげーかわいいんだぜ? ちょっと寝ぼけちゃったりしてるとこなんてたまらないんだ。お尻がね、可愛いんだ。プリッとしててさ、白くて……、いやもうやめとこう。自主規制。
にやけてしまいそうなのを必死でかみ殺しながら教室の前に着いた。ガラガラっとドアを開ける。皆わいわいと騒いでいる。相変わらず騒がしいクラスだ。すぐ目の前に敬二がいたので明るく声を掛けた。
「おっす敬二!」
「お、おう。俺ちょっとトイレ行くな」
敬二は俺が声を掛けるとすぐに教室から出て行った。なんだか妙な違和感があったような……。席に座り周りを伺うと皆にも目を逸らされたような気がした。なんだかよそよそしいというか……、まぁ気のせいか。
チャイムが鳴り丈太郎先生が教室に入ってくる。みんなが席に戻る。
……やっぱりなんかおかしい。誰一人俺に声を掛けてこなかった。……真由すらも。
授業中も妙な違和感は消えなかった。

二時間目と三時間目の間の休み時間。慎ちゃんが俺の席の前に来た。昼休みに“喫煙所”に来いとだけ言って自分の席に戻っていった。慎ちゃんもどっかおかしかったような……、目で慎ちゃんを追うと、教室の隅で幸介と何やら真剣な顔で話していた。
……まさか? 
いや、幸介とはしっかり話し合いをした。男同士の話し合いだったはずだ。そんなわけないよな……?
隣の女子たちが話している声が漏れ聞こえてきた。“勇一って最低だよね”そう聞こえてきた。
改めて周りの様子を伺うと“勇一、酷い、泥棒、コー君かわいそう”そんな言葉が飛び交っていた。
いったいどういうことだろう? いや、そういうことなのか……、そういうことなんだろう。
席に着いたまま目で敬二を探した。敬二は友達だ。きっと……。
敬二は慎ちゃん、そして幸介と一緒にいた。……そういうことか。

昼休みに言われた通り、例のトイレ“喫煙所”へと向かった。中に入るとそこにはすでに慎ちゃんと幸介がいた。
「なんだよ慎ちゃん、こんなとこに呼んでさ?」
 胸ポケットからタバコを取り出しながらそう言ってみた。本当は言われそうな事はなんとなく察しがついていた。
「……勇一、俺は正直がっかりした」
 慎ちゃんの声は明らかに怒っている。
「はぁ? 何言ってんだよ?」
タバコに火を点け顔を上げた。その瞬間には慎ちゃんの拳が目の前に迫っていた。そこからはスローモーション。どデカい拳がじょじょに近づいてくる。でも、避けられるはずない。俺だってスローモーションなんだ。その拳が俺の左の頬骨に直撃すると、スローモーション状態は解け、あっという間に俺はトイレの扉まで吹っ飛んでしまった。そしてズルズルとその場に崩れ落ちた。痛いなんてもんじゃない。普通に考えて殴られて吹っ飛ぶか?
殴られた箇所を手で押さえながら慎ちゃんを見上げる。
「勇一、お前、幸介から川辺を奪ったらしいな?」
 声は静かな響きだったが迫力のあるものだった。目が血走っている。前に一度ゲーセンで見たキレたときの顔をしている。
「はぁ? 奪ったって……、がっ――」
 腹に慎ちゃんの蹴りが入った。……手加減なしだ。
「マジ見損なったぞ! 幸介の言うとおりお前はクソ野郎だな! 男じゃねぇよ」
 さらに同じところをもう一発蹴られた。幸介を見るとただ黙って俺を見ているだけだった。
「……おい、幸介、これはどういうことだよ?」
 幸介を睨むように見た。目を逸らされた。
「おい! この前の話し合いはなんだったんだよ! 正々堂々と勝負じゃなかったのか? お互い成長し合うんじゃなかったのか?」
 幸介は黙っている。その代わりとばかり慎ちゃんが口を開いた。
「うるせぇんだよ! 話し合いったって、お前がとっくに汚いことをした後の話だろ?」
 顔面に蹴りが入る。口から出た俺の血がトイレのタイルを赤く汚す。
「――ちょ、慎ちゃん、とりあえず俺の話も聞いてくれって」
 上半身を必死に起こしながら言った。
「聞く必要なんてねぇ、聞きたくもねぇよ。おい、幸介行くぞ、勇一、お前はもうちょっと寝てろ!!」
 最後に相当な威力の蹴りが俺の顎にモロに入る。……躊躇なく振りぬきやがった。
俺は大の字にぶっ倒れた。便所でだ。慎ちゃんはそんな俺を踏みつけ、幸介は跨いでトイレから出て行った。

 ……立てない。体のどこもかしこも痛い……。それでも必死に上半身を起こして、座りながらトイレの扉に寄りかかるような体勢になってタバコに火を点けた。
 ……こういうことか、……そうきたか。
クラスの反応、敬二の反応の正体がわかった。いや、わかってたんだけど、ここまで歪んで伝わっているとは思わなかった。幸介の野郎、適当なことを吹き込みやがって。
……話し合いなんて意味なかったんだな。
――ちくしょう! 
 タバコをトイレの壁に投げつけた。火種が小さな火花を作って弾けた。
……クソばっかだ、馬鹿ばっかだな。くだらない奴らだ……。幸介も……、慎ちゃん、敬二、他の奴らもだ。俺の話を聞いてからならまだいい。それでも納得がいかないならいい。いくらでも俺を罵倒して構わない。だけど、俺は何一つ語っちゃいないんだ。俺の話を一切聞かずに、一方的な意見だけでこれか? そりゃないだろう。
それにだ、幸介が俺を殴るならまだいいんだ。受け入れてやるさ。他の奴らには関係ないだろ……? しかも、幸介は慎ちゃんに俺を殴らせやがった。
……本当にクソばっかだな。くだらねぇんだよ。
タバコを投げ捨てたばかりだったけど、また新たなタバコを取り出し火を点けた。タバコでも吸わなきゃやってられない。深く吸い込んだ。傷口に煙が染みる。……情けなくなる。これが世に言う“ボロゾーキン”状態ってやつだ。ボロゾウ君とでも呼んでくれ。
そのとき寄りかかっていた扉がすっと開いて、俺は咥えタバコのまま上半身が廊下側にはみ出して倒れてしまった。
誰かが扉を開けたのだろう。
「……あ、勇一、停学決定!」
 丈太郎先生。こんな時に停学……、最悪だ。
「――なんてな!」
 丈太郎先生がニヤリと笑った。
「タバコくらい別に俺は気にしないから、その代わりさ……って、お前どうしたその顔?」
 丈太郎先生が俺の傷やら血やらに気付いたようだ。
「あぁあぁ、制服もこんなに汚しちまって……」
「いや、別になんてことないっすよ」
 なんて言ってみたが口を開くと顎がひたすら痛かった。

次へ


戻る