「真由、何ニヤニヤしてんのよ?」
 肉じゃがの“じゃが”を食べながらお母さんが言う。この口調は明らかに私をからかっている。娘をからかうのがこの人の趣味なんだ。
「別にニヤニヤなんてしてないよ、何言ってんの?」
そう言い返して、むくれて見せはしたけど、そんな表情や言葉とは裏腹に私の機嫌はすこぶる良い。ニヤニヤしていたのはきっと本当だと思う。なにせ私は家に帰ってきてからずっと、ドリブルされているバスケットボールみたいにダムダムと弾んだ気分になってしまっているのだから。しかも、こんないつもの夕食でのお母さんとのやり取りの最中でもそれを隠せないくらいにダムダム、にやけてしまうほどダムダムと。
いったいどうしてこんなにも機嫌がよいのだろうか……なんて考えるまでもない。
それは勇一に会えたから。ただそれだけ。
実は私と勇一が公園で会ったのは偶然じゃない。
朝、学校に着いた私は勇一が来ていないことにすぐ気付いた。一時間目になっても、二時間目になっても、勇一は来なかった。
チャンス! きっとキラッと目が輝いたと思う。
勇一が学校をサボるとよく近所の公園でぼけっと時間を潰しているってことを前に聞いていたから、すぐに授業を抜け出し行ってみた。なるべく期待しないようにして行ってみたけど、やはり相当期待してしまっていて漫画みたいにドキドキという文字が胸から飛び出して見えるかと思った。そんな乙女チックな自分が可愛らしく感じた。
そして期待が叶った。勇一と会えて、しかも長いこと楽しい時を一緒に過ごすことが出来た。
その余韻が未だ消えずに残っているのだ。ちょっとスカした顔で勇一がプカプカとタバコを吸う姿を思い出したらまた顔がにやけてしまっていた。
ダメダメ。お母さんの手前、私は無理に普通の顔に戻した。
「わかったぁ、真由、コー君といいことでもあったんでしょぉ?」
……弾んだ気分はお母さんのその一言でピタッと止まり、そして沈んだ。一瞬にして自分の表情が曇ったのが鏡を見なくてもわかった。……お母さん、スティール上手すぎ。
「……違うよ」
一拍間を置き、小さな声で私の気分を台無しにした問いにそう答えた。
実は今、私には恋人がいる。もちろん勇一じゃない。相手はこれまた同級生、同じクラスの男の子で名前は神田幸介、略してコー君、……略してないな。
コー君は優しい男の子で、私のことをすごく愛してくれている。だけど、最近は優しさが弱さに見えてしょうがない。コー君は何かあるとすぐに泣く。まるで世界の終わりかのようにさめざめと泣く。とても繊細な人なんだ。私はいつもどうすればコー君を助けてあげられるのかを必死に考えていた。でも一人で考えていてもわからなかった。
だから、私は一番仲のいい男子、勇一に相談を持ちかけていた。ほとんどはメールでの相談だったけど、それでも何度も相談に乗ってもらった。勇一の答えはいつも男らしかった。
私はそのうちに勇一のほうが気になりだしてしまったのだ。きっとよくある話。それでも好きっていう気持ちが特別な感情だっていうのは確かだと思う。だって事実ものすごい好きなのだ。今では確実に勇一に対する思いが恋だと確信している。
それだけなら極シンプルなことで、ここまで気が滅入る必要はない。コー君と別れて、結果はどうあれ勇一にアタックすればいいだけだ。私の性格からしても今までの恋愛経験からしても何もなければそうしていただろうと思う。
しかし、二つ大きな問題がある。一つはコー君のことが嫌いではないということ。“情”世間でそう呼ばれる感情だろうということは十七歳の可愛らしいピチピチの私にだってわかってはいるのだけど自分がいないとダメになってしまいそうなコー君を傷つけるのは気が引ける。……愛されているのを実感しているし。
そして、二つ目の問題、それが相当厄介な問題なのだ。それは勇一とコー君がクラスメイトであり、友達だということ。しかも、コー君とは勇一の仲介があって付き合うことになったというおまけ付きだ。
……どうしたらいいのかさっぱりわからない。
私がそんなことを考えているなんて知る由もない間の抜けたお母さんは相変わらず間の抜けた声で話しかけてくる。
「ほんとにぃ? コー君になんかもらったんじゃないの?」
 ……しかも、その顔はニコニコと笑っている。
「……だから違うってば……」
「ふふふ、照れなくてもいいんだよ?」
お母さんはまだ茶化してくる。もうここまでくるとお母さんってだけで“間抜けの代名詞”だ。
はぁ〜、……なんだか頭が痛くなってきた。

□□□□
 
私立輪条大学付属高等学校は閑静な住宅街にある……と言っても俺の地元だけどね。
まぁ、ともかくそんな場所にあって、モットーに“自主自立”を掲げている高校なわけだ。自主自立を掲げるだけあって校則はかなり緩い。金髪、ピアス、パーマ、殺人、レイプ、誘拐、強盗、ハイジャック、バスジャック、そんなものは完全にオッケー……な訳はないけど、パーマまでは本当のことだ。遅刻や早退にだってかなり甘い。本当に自由な学校だと思う。しかし、そのわりには偏差値は、そこそこ高い。その一番の理由はやはり大学の付属である、ということだろう。しかも、大学への進学率は九十%以上。高校に入学した瞬間にほぼ大学進学が決定するというわけだ。俗に言うエスカレーター式というやつ。そのためか、俺たち生徒も、あいつら教師ものんびりとした雰囲気で授業をしている。もちろんそんな校風と大学までエスカレーター式で進めるという特典付きのため倍率も相当高かった。入学するために俺も必死に勉強したもんだ。あの時はちょっと神がかっていたような気さえする。なにせ勉強が好きだった。勉強にハマッたんだ。しかも“志望校入学”という大きな目標もあった。もし今、同じ問題を解け! なんて言われてもできやしない。断言できる。今は勉強に飽きているし、明確な目標も熱くなる何かもない。おかげで成績はクラスで下から四番目。しかも、下の三人には不登校の生徒も一人入れている。
そんな頭の悪くなってしまった俺は今、その自由な輪条高校に向かってホテホテと歩いている。遅刻もしていない。何百回と通っているいつも通りの通学路。唯一、いつもと違うところと言えば、さっき来る途中で偶然出合った真由と一緒に登校しているという事くらいだろう。ただそれもたまにあることで特に珍しくもない。結局、真由と公園で話した日から数日が過ぎても何も変わっていない。俺の生活は良くも悪くもなっていない。でも今日は全く問題ない。順調。この前みたいな心境にはなっていない。
なぜなら俺は、基本的には全て受け入れているからだ。何をって? そりゃ、人生がつまんねぇってこと、学校が意味ねぇってこと、それでも、それなりにはどんなことも楽しめるってこと、そう、俺は世の中ってものをほとんど受け入れているんだ。
 つまり俺はその受け入れた世の中をバックと一緒に背負って平然と輪条高校に登校しているというわけ。なんの苛立ちも起きないよ。普通の日々だ。学校に行けば友達がいる。一日一回は爆笑できる。どちらかと言えば楽しい日々だ。
「……うん、でももう終わりそうな気がするんだ」
珍しく曇った表情の真由が言う。今の話題は真由の恋愛の事だった。なんでも別れたいらしい。
「まじで? なんでまた?」
 俺は正直驚いている。ちょっと前まで真由から落ち込みやすい彼氏を元気付ける方法を盛んに聞かれていたからね。
「……うん、えっとさ、なんかもう無理って思うんだよね……。一緒にいても全然楽しくないんだ」
 真由の視線は道端の石ころを探す小学生みたいに常に下を向いていた。元気印、天真爛漫、そんな真由がこんなに元気がないってことは本気で別れを考えているんだろう。
「そっかあ、てことは真由ん中では別れるのは決定してるってこと?」
「う〜ん、それがさ微妙なんだよね……。でさ、今日の放課後とか空いてるかな? ゆっくり相談したいんだけど……、こんなこと相談できる男友達って他にいないから、お願い!」
 真由がパンッと音を鳴らせ両手を合わせて頼んできた。そして恐る恐るやっと顔を上げて俺を見る。……まぁいっか、暇だしな。顔も可愛いし。
「おう、今日は特に用事もないから別にかまわねぇよ」
「ホント? ありがと!」
 そう言って真由がちょっと笑った。
「あ、でもそのかわり、お前の奢りだからな?」
「あれ? 女に奢ってもらうの? 男としてそれでいいのかなぁ?」
「あぁ、俺は男女差別しないからな。単品じゃなくてセットでお願い」
俺はそう言って笑って見せ、真由は“もう”っとふくれた。こんなわざとらしい表情は“かわいいね”なんて散々言われて育ってきていないとできないだろう。
そのあとは、適当な話をあーでもないこーでもないと話していた。そして真由と並んで校門をくぐる。
下駄箱のとこで真由と別れると、俺は教室に行く前にトイレに向かった。学校に着くやいなやトイレに向かうのはもう俺の日課になっている。それもみんなが使うトイレではなくて、今では使われなくなったとある部室のすぐ近くにあるトイレに行くんだ。そこは、教室や職員室から離れているため、俺の仲間内以外は、他の生徒も教師も滅多に使用しない。つまり安心して朝の一服が出来るというわけだ。仲間内ではこのトイレのことを「喫煙所」なんて呼んでいる。
いつも通りトイレに入った瞬間にタバコを取り出し火を点けた。トイレではトントンとはしない。だって、汚いだろ?
“さてと今日もがんばるか!”
なんて嘘くさいことを心で呟いてみたりしつつ、俺はしょんべんをしながら煙を吐き出す。体から色んなもの出しまくりだ。
しょんべんをし終え、咥えタバコで手を洗っていると、背中越しにトイレの扉が開いた気配を感じた。誰だ? 先生か? なんてほんの一瞬だけ思ったけど、それはないってことはわかっていた。クラスの友達なんかもたまにここに一服しに来るんだ。仲間内の誰かだろう。鏡越しに姿を確認する。
扉を開けたそいつは幸介だ。
「ういっす、幸介」
「うん、おはよう」
神田幸介、俺のクラスメイトであり、真由の彼氏。仲の良い友達というより、幸介が気の弱い奴だから、頼られているというか、色々相談に乗ってあげたり、仲間内に誘ってやったりという感じの間柄だ。先輩後輩の関係に少し似ているかもしれない。そういえば真由との仲を取り持ったりもしてあげたこともあった。ちなみに幸介はタバコを吸っていない。てことは俺に用があるんだろう。
「……勇一、やっぱここにいたんだ。それにしても毎朝吸ってたらヤニ臭くてばれちゃうよ?」
 独特の優しいというか、弱々しい調子で言ってくる。
「大丈夫だよ。うちの学校は評判が大事で、なるべく停学者や退学者を出さないようにしてるからな、現行犯以外なら全く問題ねぇよ」
 そう言いながら蛇口を閉めた。ハンカチを持たない俺は濡れた手で髪の毛を整える。髪も決まるし、手も乾く。一石二鳥で省エネでエコロジーなんだ俺は。
「まぁ、そうだね。……あのさ、勇一、今日学校終わったらちょっと大丈夫かな? ちょっと相談したい事があるんだよね」
用も足してないのに隣でなぜか手を洗い始めた幸介が聞いてきた。幸介が俺を誘う時は決まって何かの相談だ。それも最近は真由とのことばかりだった。
「う〜んと、悪い。今日はちょっと用があるんだよな……」
その用事が真由の相談に乗ることだってことは隠しておいた。……言いにくかった、というか言えるわけがないだろ。
「そっか、なら、しょうがないか。……俺さ、最近真由と上手くいってないんだ……」
 幸介は手を洗い続けながら聞いてもいないことを話し出した。よほど聞いてもらいたいのだろう。鏡越しに幸介の顔を見ると細めの瞳がじんわりと濡れていた。俗に言う“涙ぐむ”ってやつだ。
「あぁ、そうなんだ」
俺はこんな生返事しか出来ない。真由が“もう無理っぽい”なんてことを言っていたのを今さっき聞いたばかりだったからか、なんだか嘘を吐いているような気分になった。胸のあたりにミッキロークのジャブのような小さくて鈍い刺激を感じた。ちょっと嫌な気分。基本的に嘘を吐くのは嫌いなんだ。
「なんか真由がさ、最近すげーそっけないんだよね……、俺は変わらず、すげー好きなのに。どうしたらいいのかな……? 勇一は知ってると思うけど、俺、人と付き合ったりするの初めてだしさ、わけわかんないんだよね、本当に辛いんだ……、苦しいんだよ…」
 目に溜まった涙の粒が今にも零れ落ちそうなのを必死で堪えながら話す幸介に俺はなんて言えばいいのだろうか……。真由に話を聞く前なら何とでも言えたのだけど、中途半端に話を聞いてしまったからか、なんて答えればいいのかわからなくなってしまっている。
……はぁ、正直かったるい。
「……え〜っと、なんて言うか、まあ、どんなに好きでも相手の迷惑になることもあるしな、恋愛ってのは難しいよなぁ?」
 返答に困っていた俺はこんなことを取り繕うように言ってみた。その瞬間、幸介の顔色が変わった。そして、
「……どういう意味? もしかして真由、俺のこと何か言ってた?」
 震えていて涙声とも取れる声が返ってきた。……う〜ん、しまった、どうやら言葉のチョイスを間違えてしまったようだ。
「あ、いや、別に深い意味はねぇよ、ただほら、好きって気持ちなんてのは、結局ただのエゴにすぎねぇよっていう一般論だよ。わかるか?」
 なるべく幸介を見ないようにして吸殻でいっぱいになっている携帯灰皿にタバコを押し込んだ。そろそろ吸殻を捨てないとな。
「好きってそういうものかな……? 俺には正直ピンとこないな。好きっていうのは綺麗な感情でしょ? それがエゴとか……、なんか違うと思うな……」
 俯きながらそう言う幸介に俺は「いずれわかるんじゃん?」なんて適当な事を言い残し、幸介を置いてそそくさとトイレから出てしまった。……だって居づらいんだもの。今、可愛らしく言ったのは罪悪感をやり過ごすための最良の手段だ。
嘘を吐いたわけではないが、それに似たことは言ってしまっている。まったく、なんで関係のない俺がこんな罪悪感めいた感情を持たなければならないんだろうか……。教室に向かって歩きながらそう考えてみたが、その答えはわからなかった。
「はぁ〜、……なんだかなぁ」
幸介のいるトイレのほうを振り返りポツリと呟いてみた。

□□□□

……真由、真由……、真由真由。
……あぁ、頭がどうかしてしまいそうだ。
教室で一人、席に座っていると周りの全てが自分となんら関係のないことのような気がしてしまう。
きっとこの時間帯もそれに拍車を掛けている。八時十五分……、一ヶ月前くらいまでは大好きな時間帯だった。ホームルームが始まる少し前の浮ついたこの時間帯は、みんな各々の仲間内でわいわいとやっていて、俺の席の前には机の上に腰掛けた真由が俺を見ながらニコニコと笑い、くるくる変わる表情で楽しい話をたくさんしてくれた。俺もそれに答えようと必死で話した。……真由の笑顔が大好きなんだ。
今もいつものように教室はざわついている。でも真由が居るはずの俺の席の前には今は誰もいない。勇一も真由もお互いのグループ内ではしゃいでいる。
……騒がしい教室で俺だけが一人静かに座っている。まるで自分の周りに薄い膜が張っていて、自分だけが他とは全く別の空気を吸っているようだ。しかも俺の吸っている空気だけが不味い。すえた孤独の味がする。……息をするのすら苦痛なんだ。
元々俺は人と話すのが得意なタイプじゃない。相手が望むような事が言えないんだ。もちろんみんなを笑わせられるような気の利いたことなんて言えるはずがない。
高校に入って勇一や真由なんかと出会う前は友達と呼べるような人は一人もいなかった。小学校、中学校ではいつでも一人だった。当時は世界がどこかぼやけて見えていた。勇一が俺に声を掛けてきてくれてから少しずつピントが合ってきたんだ。そして、真由と付き合うことになって本当に世界が輝いて見えるようになった。真由はぼやけた世界を美しく見せてくれるフィルターなんだ。
真由は俺が辛いときにいつでも優しくしてくれた。俺の苦しみを理解してくれて、一緒に泣いてくれる事もあった。真由は優しいんだ。
――でも今は。
チラチラと真由の様子を伺うと大きな口を開けて友達の前でケタケタと笑っていた。そんな真由を見るとさらに落ち込んだ気分になる。
最近は俺の前ではあんな風に笑わない。それなのにどうして……。
俺と一緒にいるより友達と一緒にいたほうが楽しいっていうのか? 俺のことはもう嫌になってしまったのか?
しばらくジッと真由を見ているのに一向に目が合う気配はない。俺のことを見ようともしないんだ。明らかに意識的な行動だと思う。もう真由を見ているのが辛くなった。思わず机に顔をつっぷしてしまう。だって顔を上げていたって真由は見てくれない。それならば顔を上げて何かを見るなんていう行為には、なんの意味もないじゃないか……。
なぁ、いったいどうしてなんだよ? ……俺はこんなに真由のことが好きなのに。
本当に、本当に好きなんだ。結婚したいとまで思っているんだ。それなのに最近の真由は俺の前で笑うことさえない。……連絡もほとんどくれない。もしも、もしも真由が別れを言い出したりしたら俺はいったいどうなってしまうんだろうか……。こんなに純粋に、心の底から真由のことを思っているのに……。確かに、真由に甘えすぎているところもあるかもしれない。だけどそれは俺がダメな男で、弱いからってだけで……、悪気なんてないんだ。これでも俺は頑張っているんだ……。優しい男になろうとしてるんだよ。わかってくれよ。俺なりには頑張っているんだ。前はわかってくれたじゃないか……。なのにどうして! なぜ!!
気付くと涙が溢れてきていた。
……俺はきっと純粋すぎるのだろう。人より物事をまじめに考えすぎているのだろう。だからこんなにも辛いんだ。……人一倍辛いんだ。きっと、馬鹿で汚い奴らはこんなに苦しまずに済むんだろう。……だって馬鹿だから、……だって卑怯だから、……だって嘘吐きだから、……ここまで苦しい事なんてほかの奴らにはないだろう。
……羨ましい。
……世界は不公平すぎる。
……理不尽すぎる。
次へ

戻る